アンビバレント・ヒップホップ(19)変声を夢見ること──ヴォコーダーからオートチューンへ|吉田雅史

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初出:2019年06月24日刊行『ゲンロンβ38』

1 地声と加工、加工と変声


 この数回の連載では、ラップと演技の関係について考察してきた。前回は特にラッパーの声にフォーカスを当てた。ラップはしゃべり声に近いのか、それとも、もっと加工された、作られた声なのか。

 多かれ少なかれ作った声色で披露される「歌」と異なり、一般的にラップは「しゃべり声」あるいは「地声」に近いため、その声色には健康状態など、様々な声の持ち主が置かれている状況が表れる。ラッパーが少なからず演技をしている場合、その声色には不慣れな俳優の演技に見られるような「恥」さえも表れうる。しかし2パックがギャングスタのペルソナをまとって(≒演技をして)ラップしていると考えると、彼がダブリングと呼ばれる声を二重に加工する録音手法を用いていることが重要だった。それは「しゃべり声」からかけ離れた、加工された声であったから、そこに「恥」が表れることはなかった。

 しかし演技をするときに「恥ずかしくない自分」を仮構してしまうと、それは本来の自分(=私)とは関係のない誰かになってしまうのではないか。だから「私を表現する」ためにも2パックはアルバムや楽曲に「恥」が表れざるを得ない「しゃべり」を配置した。結果的にそれらの「しゃべり」は彼の作品にラジオドラマのようなサウンドのみの語りが持ちうるリアリティをも与えた、というのが議論の骨子だった。

 ラップは歌とは異なり、地声を用いることで、そこに滲む様々なラッパーの状況が表出される特殊な表現方法だった。加工された声による歌では捨象されてしまうもの。それらが表現されうるのが、ラップのひとつの可能性だ。

 しかし近年、奇妙な事象が起きている。このラップの可能性と逆行するような流れが見られるのだ。

 地声と比較して「加工された歌声」というとき、「加工」をしているのはあくまでもそのシンガーの、あるいはラッパーの生の口であり、喉であり、舌である。声帯を締め付け、あるいは解放して、声色を加工すること。しかし声は、事後的にも、加工されうる。喉や口から発せられ、マイクを通る声、あるいは録音された声に対して、テクノロジーを用いて加工を施すこと。たとえばカラオケでも用いられる残響音を付加するリバーブを始め、様々なエフェクトが、ライブやレコーディングの現場で、声に対して施される。

 前者を「歌い手が加工する声」と呼ぶとすれば、後者は「機械的に加工される声」と言えるだろう。そして後者の加工に用いられる多くのヴォーカル用のエフェクトの中でも、本来の用途を超えて、ひとつの歌唱表現のスタイルとして確立されるにまでいたったものがある。「オートチューン」が、それだ。正確には、PCで音楽制作をする際に用いるAntares社製の「Auto-Tune」(一九九六年発売)を始めとする自動ピッチ修正ソフトのことだ★1。その名の通り、自動的にヴォーカルなどの音程を補正するソフトウェアなのだが、極端な設定をすると、その副産物として「ロボ声」や「ケロケロ声」と呼ばれるような効果を生む。

 いまやあまりにも当たり前になってしまったこのオートチューンを用いたヴォーカルは、RBやEDM、ロックといったあらゆるジャンルのヒット曲で聞くことができる。欧米では一九九八年にシェールがヒット曲「Believe」で用いたことがきっかけとなり、その後ゼロ年代中盤以降に広まったが、日本においても同時期にオートチューン声がトレードマークのPerfumeのヒットなどで広く知られるサウンドとなった。

 このオートチューンに対して抱くインプレッションを一言で表すなら、アンビバレントという言葉がふさわしいように思われる。流行のサウンドとして無分別に利用されヒットチャートに氾濫する様には疑問を抱く一方で、人々がその独特なサウンドに惹きつけられることには興味を持たざるを得ないからだ。さらには、歌い手の不安定な音程を正しく矯正することから、スキル不足を隠すツールとして否定的な見方ができる一方で、歌という表現に及び腰であったアーティストの背中を押し、彼らの表現の幅を広げる――地声で歌うのは気恥ずかしいが、オートチューンをかけた声なら抵抗がない――という極めて肯定的な意義を見出すこともできる。

 しかしそもそもここまで流行するからには、何か根本的な理由がないのだろうか。オートチューン声の蔓延を駆動する、端的に言えば「変声への欲望」のようなものだ。なぜ人々は変声を求めるのだろうか。

2 カニエ・ウエストの跳躍


 一口に変声を求めるといっても、ふたつの主体を考えなければならないだろう。ひとつは、歌い手側が抱く、変声への欲望。自分が慣れ親しんだ声とは別の声を獲得したい。もっと違う声で歌いたい、という欲望。そしてもうひとつは、聞き手側のそれだ。なぜシンプルに人間の声ではない声で歌われる歌を求めるのか。

 まずは、前者について考えてみたい。こんな経験はないだろうか。スマホなどの動画に映る自分の声を聞いて、それを奇妙な声だと感じてしまったこと。それは間違いなく自分自身のもののはずなのに、まるで他者のもののように、聞き慣れない声なのだ。このようなことが起こるのには理由がある。スマホのマイクで録音された声は、僕たちが普段聞き慣れている、あごの骨経由で体内を伝わる(=骨伝導)自分の声とは聞こえ方が異なるからだ。僕たちは一般的にスピーカーやイヤフォンから聞こえる自分の声を「不気味なもの」として嫌悪すると言ってもいいだろう。だから、ここに変声への欲望の萌芽を見て取ることができるかもしれない。

 しかしそのような一般人のケースとは異なり、ラッパーやシンガーといった「歌い手」は、常日頃から曲作りをし、レコーディングを重ね、録音された自分の声を聞き続けている。彼らはいわば、この「不気味な声」に慣れ親しんでいる者たちだ。だからその意味で彼らの場合は本来、変声への欲望は刺激されないはずだ。

 それにもかかわらず、歌い手が自ら変声の表現を選択し、用いた楽曲は多数存在する。ということは、そこには個々の歌い手側の動機があるに違いない。ここで取り上げるのも、ある動機により、変声を求めた歌い手の例だ。もっと正確にいえば、変声を「求めざるを得なかった」歌い手の例だ。
 いまやヒップホップの世界においても、ビルボードのラップチャートを覗いてみれば、ヒットしている楽曲の多くから、オートチューンがかけられたヴォーカルが聞こえてくる。二〇〇〇年代に入ってから、T・ペインを代表とする先駆者たちの成功により、ラップの楽曲でもフック(=サビ)においてメロディを歌いながらオートチューンのかかった声を用いるケースが増えてくる。その中でもエピック的作品が、カニエ・ウエストの四枚目のアルバム『808s & Heartbreak』(二〇〇八年)だ。

 このアルバムは、ヒップホップにおけるオートチューン活用の先駆けのひとつであるだけでなく、ヒップホップが取り扱う表現の範囲を大きく拡張してしまった。このアルバムが嚆矢とならなければ、昨今の多くのアーティストのスタイルやヒット曲は生まれなかったかもしれないのだ。

 カニエ自身、以前の三枚のアルバムで不動の評価を得ていたにも関わらず、築き上げた過去の遺産を自ら捨て去るように、全く新しいスタイルを披露した。その姿勢は極めて勇敢であると同時に、向こう見ずなものだった。

 それでは彼が捨てた遺産とは何だったのか。まず彼は、サンプリングを捨てた。そのサンプリングのセンスが高く評価され、プロデューサーとしても多くのヒット曲を手掛け、引っ張りだこの状態であったにも関わらず、彼は愛機のサンプラー、ASR-10を捨てた。つまり、自身が一番得意としていた楽曲制作のスタイルを捨てたのだ★2

 その代わり彼が手に取ったのは、本作のタイトルにも含まれているTR-808というリズムマシーンだった。だからこのアルバムにはサンプリングされたフレーズはわずか三つしか現れない。そして全編に通底するビートは、いわゆるヒップホップ的なもの――たとえばブレイクビーツやブーンバップと呼ばれるビート――とは大分質感を異にしている。TR-808の低音の効いたキックやタムの音を太鼓のように乱打する、もっとプリミティヴで、トライバルと言っても差し支えのないものなのだ★3

 そしてもうひとつ、彼が捨てたものがあった。それは他でもない、ラップだった。

 ヒップホップのアルバムで、ラップを捨てる? それがインストのアルバムなら、ありうるだろう。しかし本作にインストの楽曲は見当たらない★4。収録されている──曲全てが、カニエの言葉で埋め尽くされているのだ。しかしそれは従来のラップとは異なる。彼は「しゃべり声」に近い声でラップするのではなく、「歌い手が加工する声」でメロディをつけながら歌っている。さらに全編にわたって、オートチューンを深くかけるだけでなく、フィルターでこもらせたり、あるいはオーバードライブで歪ませた「機械的に加工された声」で歌ったりしている。

 ゼロ年代は、歌とラップの区別が曖昧になる時代だ。ドレイクのように、その両方で見事な表現のできるアーティストが増えることによって、両者の区別はより曖昧なものになる。本作をそのようなシンギング・ラップの作品として捉えるのは容易い。本作を埋め尽くすのは、メロディを伴った、シンプルに「歌」と呼んでも差し支えのないライムである。カニエは本作を、マイケル・ジャクソンのアルバムのように、チャートで一位になるような、メロディを持ったものにしたかったと言及している。

 しかし彼がこのような表現を取ったことには、止むを得ない理由があった。言ってみれば彼は断腸の思いで、「しゃべり声」に近いラップでの表現を捨て去らざるを得なかったのだ。どういうことか。

 二〇〇七年に相次いで彼を襲ったのは、フィアンセとの別れ、そして彼のマネージャーでもあった最愛の母親の急逝だった。そのような経験の最中で制作に向き合った彼が紡ぎだしたリリックは、元フィアンセとの別れの顛末に言及しつつ、ときにネガティヴな感情を直接的にぶつけながら、彼女に、そして彼女との記憶に、別れを告げるものが中心だ。そしてアルバム本編のラストを飾る「Coldest Winter」は、母親に捧げられている。しかし元フィアンセと母親の不在はときに互いに混濁し合い、ときにカニエの歌声は何よりも自分自身に言い聞かせる言葉のようにも聞こえる。そして彼は、自分の地声でそれらを歌うことができなかったのだ。

 カニエにとって、自分自身の声で録音された楽曲群を何度も聞き直したり、あるいはライブでベタに何度もその歌詞をなぞり、繰り返し繰り返し同じ悲しみと失意の中を生きるのは、耐えがたいことだった。だから彼は、その声を少し変えることで、そこに第三者性を担保させようとした。変声とは、ある意味で自己とはぴったり重ならない声を持つことで、自身に降りかかった状況を、メタレヴェルから見下ろすことではないか。第三者の視点=ロボ声で、それを物語にして歌ってしまうことは、ある種の癒しとなるのではないか。

 このとき変声とは、歌い手がある種のエモーションから解放されるための、行き場のない感情の逃げ場として機能している。だから歌い手は、特殊な状況に置かれたとき、変声を求める。

 それではこのとき、オートチューンはどのような役割を果たすのだろうか。

 カニエにとって極めて切実な現実である物語は、自己との同一性が揺らぐような声で歌われることによって、ある意味でフィクショナルな位相を獲得するのではないか。少し突っ込んで考えてみたい。

 オートチューンが深くかけられた声と、地声を比較すると、具体的には何が異なるのか。僕たちは実際にところ、何を聞いているのか。オートチューンとは、その名の通り、自動的に(=オート)音程を矯正する(=チューン)ソフトウェアだ。その楽曲のキーを設定することで、そこから外れる音は、全てキーの通りの高さに補正される。つまり、ピアノなどで弾いた実際のメロディの音程に対して、少しシャープしたりフラットしたりする音を外している歌声も、少なくともピッチの面においては完璧なものに矯正される。それを逆手に取り、ソフトのパラメータ設定を極端にすると、たとえばC付近をうろつくような中途半端な高さの音は、高い方のDに振られるか、あるいは低い方のCに振られ、にわかに矯正される。そのため、結果メロディがCとDの間を極端に行き来するような場合に、ロボット声やケロケロ声と呼ばれるような奇妙な効果が付加される。

 この「奇妙な効果」とは「フィクショナルな声」と言い換えられるだろう。だからこのような声で語られる物語にも、フィクションが滲む。カニエは実際に自分の身に降りかかった悲劇を客観視し、距離を保つ必要があった。だから、その悲劇にフィクションの位相を与えようとした。まずはそのように理解できないか。

 さらに言えば、カニエはいわば極度の悲しみとストレスによりラップの言葉を失う病(=失語症)を発症してしまったのかもしれない。彼は「しゃべり声」を失った。全ての言葉はただでさえ「歌い手が加工する声」である歌声で発せられ、さらにそこへオートチューンによる「機械的な加工」が上塗りされる。そこに彼の「恥」が表れる隙はない。

 しかしカニエのオートチューンがかけられた声からは、それでもまだ、エモーションが溢れてしまっている。だからオートチューンとは、声を加工することで恥を見せることなく、エモーションを発信する(=上手に演じる)装置といえる。それは歌い手の言葉による物語にも、歌い手の声自体にも、フィクショナルな位相を与えるのだ。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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