カリブ海の記憶と逃走/闘争する奴隷たち──ポスト西洋的な「自由」概念としてのマルーン化|中村達

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webゲンロン 2024年3月19日 配信

 

 2015年8月、日本が戦後70年を迎えた月に、私はイギリスによる植民地支配からの独立後53年目となったカリブ海の島国、ジャマイカにいた。それまで東京の大学で英文学を学んでいた私は、飛び出すように大学院を退学し、ジャマイカの首都キングストンにキャンパスをもつ、西インド諸島大学の博士課程へ留学したのだ。

 西インド諸島大学モナキャンパスの英文学科は、英語では“The Department of Literatures in English”と複数形をもちいて表記される。もともと西インド諸島大学は、ジャマイカがイギリスの植民地だった時代に、ロンドン大学の分校として設立された過去をもつ。そのカリキュラムはイギリス本国と同一であり、シェイクスピアやワーズワースといったイギリス人作家だけが教えられた。その後、アメリカ人作家の作品もカリキュラムに加えられる。しかしカリブ海の作家たちが授業に取り上げられることはなかった。

 英文学をつくりだしているのはイギリスとアメリカの作家だけではない。カリブ海にも文学はある。カリブ海の旧イギリス植民地の国々によって運営されている西インド諸島大学の英文学科がみずからを複数形で表記するのは、世界各地に──カリブ海にはカリブ海の──「複数の英文学」があるということを示す、脱植民地的な戦略であるといえる。

本稿に登場するカリブ海の地名(編集部作成)

 私がカリブ海で気づいたのは、文学や思想の複数性だった。現代のカリブ海では、イギリスやフランス、スペイン、オランダといった西洋諸国による長い植民地支配を受けてきたという自分たちの特異な歴史と経験をもとにして、思想家たちが独自の思想や理論をつくりだしている。重要なのは、そのようなカリブ海の脱植民的な思想が、「現代思想」それじたいの西洋中心主義や白人至上主義にさえ抗おうとしていることだ。

 たとえばカリブ海思想研究の第一人者であり、みずからもドミニカ共和国の出身であるシルヴィオ・トレス゠セイランは、著書『カリブ海思想史』のなかで、現代思想にみられる「我々」や「世界」、「地球」といった用語の蔓延を「惑星的気取り」と一蹴する★1。一方では「脱植民地」を標榜しながら、他方でマルクスやハイデガー、フーコー、ドゥルーズ、デリダなどに頼り続けるポストコロニアリズム等の現代思想の論者たちは、依然として西洋への「哲学的依存関係」のなかにある。それゆえ、現代思想の西洋中心的引力を断ち切り、カリブ海独自の思想を体系化していくことが必要なのだ。

 

 昨年出版された拙著『私が諸島である──カリブ海思想入門』(書肆侃侃房)で、私は英語圏を中心としたカリブ海思想の体系化と導入的な解説を行い、「カリブ海思想には独自の歴史がある」ということを示そうとした。本稿では、そこからさらにカリブ海思想へと分け入っていく一歩目として、奴隷制というカリブ海の特異な歴史的経験をもとにポスト西洋的な「自由」の概念を立ち上げようとする、カリブ海思想家の声を紹介しようと思う。

中村達『私が諸島である──カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、2023年)

奴隷制の歴史と「生まれながらの疎外」

 1492年にクリストファー・コロンブスによって「発見」された後、カリブ海の島々は西洋諸国による長い植民地支配を経験することになった。たとえばジャマイカは最初にスペインによって、その後イギリスによって植民地化され、そしてその近くのハイチやキューバはフランスやスペインなどによって占領された。

 西洋諸国の植民地とされたカリブ海には、主に砂糖を生産するためのプランテーションが多く建設され、そこではアフリカ大陸から大西洋を越えて連れてこられた奴隷たちが過酷な労働を強いられていた。年季奉公制を通してインドからの人々の大量な流入を経験したトリニダード・トバゴやガイアナなどを除けば、ジャマイカなど旧イギリス植民地の国々では、現在国民の大半を彼らの子孫であるアフリカ系が占めている。

 カリブ海思想家たちは、「奴隷制」の歴史をみずからの特異な歴史的経験として受け止め、そこからカリブ海独自の、ポスト西洋的な「自由」を概念化しようと試みている。

 

 ジャマイカ人歴史社会学者のオーランドー・パターソンは「奴隷」たちの置かれた状況を「社会的死」(social death)と「生まれながらの疎外」(natal alienation)いう概念をもちいて説明する。「奴隷は彼の両親や血縁関係に対するあらゆる権利と義務を否定されるだけでなく、さらに、何世代も前の祖先や子孫に対する権利や義務も否定された。系図の上で彼はまったくのひとりであった」★2

 奴隷制の下で、奴隷は家族や祖先から切り離され、記憶や伝統の継承を阻まれ、文化を新しくつくりだすことさえ不可能になる。「生まれながらの疎外」によって出生性を抹消され、祖先から子孫へと伝統や文化を受け渡す「記憶の共同体」(community of memory)をもつことを許されない奴隷たちは、主人なしには社会的に存在しているとは認められない「疑似人間」として生きることを余儀なくされていた★3

 

 旧イギリス植民地であるトリニダード島出身の政治思想家C・L・R・ジェイムズは、著書のなかで、奴隷たちが自殺することを厭わなかったという事実に触れている。「自殺は日常茶飯事であり、奴隷は自分の生命を軽視していたので、個人的理由からのみならず、主人にたいするつらあてのためにもよく自殺した。生きていくことはつらく、死はたんに苦痛からの解放であるばかりか、アフリカへの回帰であると信じ切っていた」★4

 もし奴隷が本当に社会に居場所を持ち、この世界が存続することを切に願っていたのであれば──この世界への愛を持ち続けていたならば──、進んで死を選ぶことがあるだろうか。彼らは、自分たちが労働する動物としてただただ使役されるプランテーションのみが目の前に広がる世界が続いていかないように、抵抗手段として自死を選び、ときには我が子の殺害さえをも選んだ。

奴隷は船に積み込まれアフリカからカリブ海へ運ばれた。18世紀にジャマイカへの奴隷貿易にも用いられたブルックス号の船内図 出典= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Slaveshipposter.jpg Public Domain

  奴隷制の過酷な歴史的経験を受け止めようとするカリブ海思想の対照をなすのは、たとえば「人間の条件」をめぐるハンナ・アーレントの議論である。ナチス支配下のドイツで全体主義的統治の猛威を経験した彼女は、全体主義が人間の「出生性」を抹殺しようとしていたことを指摘する。人間に「新たな始まり」という世界への希望を抱かせるこの出生性は、いわば「奇蹟」とも呼べるものだ。それゆえ全体主義は、たとえば強制収容所によって人間の法的人格と道徳的人格と個体性を破壊していくことで、「新しい始まりを生み出すという能力そのもののうちにある自由の源泉をも取り除かなければならな」かったのである★5

 

 しかしアーレントは、そのような人間の出生性の抹殺、人間の自由の全面的な否定を根幹にした思想の痕跡を、奴隷制のあの長い歴史の中には認めない。無論彼女は奴隷制を完全に無視しているわけではないが、20世紀ヨーロッパの政治体制において顕現した全体主義に比べ、彼女の思想において奴隷制は軽視されているように見える★6

 彼女は英語版の『全体主義の起源』において、奴隷制が人類に対して行った危害を説明する中で、奴隷たちが「社会において特有性や居場所」を持っていたと述べている。

奴隷制によって行われた人権に対する根本的な罪は、それが自由を奪ったことではなく(これは他の状況でも起こりうる)、ある種の人々が自由を求めて戦う可能性からさえも排除したことである[……]。しかし最近の出来事を考慮すれば、奴隷ですらある種の人間共同体に属していたと言える。彼らの労働力は必要とされ、利用され、搾取された。このため、彼らは人間性の範疇(within the pale of humanity)に留まっていた。奴隷であるということは、畢竟、社会において特有性や居場所を持つこと(to have a distinctive character and a place in society)だったのだ。★7

 20世紀ヨーロッパの全体主義に比べれば、奴隷制は奴隷たちに社会での居場所を与え、まだ「人間性の範疇」で扱っていたというこの見解は、アーレントの思想の限界もしくは西洋中心的な側面を露呈しているだろう。

 

 アーレントの奴隷制やアフリカ、黒人への問題含みの姿勢には近年様々な研究者が批判的に取り組んでおり★8、その一部は日本語でも紹介されている★9

 たとえば黒人急進主義の伝統の観点からアーレントの出生性概念に鋭く切り込むアンドレス・イナオ・カストロは、彼女をこのように批判する。「理由なき暴力、生まれながらの疎外、そして全面的な屈辱──これらはすべて、人間にできる限界を超え搾取の割合を拡大するために、奴隷にされた人々の社会性を殺すこと(社会的死)に向けられている──が何らかの形で奴隷たちに『社会における居場所』を与えることができると言うのであれば、そのような主張は馬鹿げているだけでなく、奴隷制という完全なる支配を凡庸化しながら歪曲する、認識論的暴力によって植民地主義に加担する行為である」★10

 アーレントの「世界への愛」はカリブ海を語ることができるだろうか。実際のところ、その言葉は、奴隷制の悲惨な歴史を無視しており、「社会的に死んだ人々の生まれながらの疎外の上に究極的には成り立っている」のではないだろうか★11。人間の歴史において出生性を抹殺する思想が蔓延した「暗い時代」が始まったのは、全体主義の時代である20世紀ヨーロッパではない。それはあのカリブ海で起きた「1492」──西洋とアフリカの遭遇の瞬間から奴隷制への移行──においてすでに始まっていたのだ★12

マルーン化とポスト西洋的な「自由」

 西洋思想が無視してきたカリブ海の奴隷制の歴史から「自由」の概念を構想しようとする人物として、アフリカ・カリブ海政治理論研究者のニール・ロバーツが挙げられる。ロバーツは、パターソンの「生まれながらの疎外」とアーレントの西洋中心的な「出生性」を並置することで、カリブ海の視点から「反西洋的ではなく、ポスト西洋的」(not anti-Western, but post-Western)な出生性の議論を弁証法的に展開する★13

 『マルーン化としての自由』という2015年刊行の研究書で、ロバーツは「自由にかんする西洋の理論は逃走という行為に十分に関心が及んでいないため、その実践者と自由との関係の度合いを覆い隠してしまっている[……]西洋思想だけでは、狭間から現れる逃走を説明することはできない」と主張する★14。カリブ海における奴隷制下で、人々が生まれながらの疎外を経験しながらも「新しく始めてゆく」可能性を輝かせる行為としてロバーツが着目したのが、「マルーン化」(marronage)である。

 

 「マルーン」とは、ジャマイカやドミニカ共和国、キューバ、ガイアナなどのカリブ海の島々において、そして広くはスリナム、ベネズエラ、ブラジル、コロンビア、メキシコなどラテン・アメリカの各地で見られた逃亡奴隷とその子孫を指す。その語源はスペイン人たちの言葉で「野生」を意味する「シマロン」(cimarron)であるとされる。スペインによる植民地支配初期、「山に逃げ野生化した家畜」に使われていたこの言葉は、次第に逃亡奴隷たちに向けられるようになった。彼らは白人奴隷主が恐怖で支配するプランテーションから逃れ、山奥で生活拠点を見つけ、生活環境を整えていった。そして少しずつ新たなに逃走してきた仲間を取り入れながら、独自のコミュニティを立ち上げた。逃亡奴隷は、自然の中を逃げ隠れしながら戦い、時には潜伏して襲撃する「ゲリラ戦術」により、「多くの勝利を収め、戦士たちを虐殺から、そして自分たちの共同体を破壊から守り、最終的には植民地主義者たちの闘争を続ける意志を打ち砕いた」★15

木立で待ち伏せする武装したマルーンの集団(18世紀末、ジャマイカ) 出典= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Maroons_In_Ambush_On_The_Dromilly_Estate_In_The_Parish_Of_Trelawney,_Jamaica_in_1795.jpg Public Domain

 西洋思想だけでは、カリブ海における人々の自由への闘争/逃走の行為としてのマルーン化の意義を理解することはできない。「マルーン化とは自由の理想であり、カリブ海の人々は[マルーン化という]自分たちの概念を単にヨーロッパの言説から派生したもの、あるいは単に闘争から退いたものと考えてはならない[……]。マルーン化は逃走と同時に、ある自由にかんする独特な概念を確立するための闘争から生じた社会的変容をも伴うのである」★16。マルーン化とは、奴隷制に抗う人々が実践し続けた、この地域の歴史を物語る抵抗の手段なのだ。

 

 前出のパターソン、カリブ海出身でアルジェリア独立運動でも大きな役割を果たしたフランツ・ファノン、そして植民地支配を受けたカリブ海世界の歴史を自身の「詩学」によって語り直してきた作家エドゥアール・グリッサンらカリブ海思想家たちの理論を参照点としながら、ロバーツは4つの「マルーン化」をマッピングしてゆく★17

ロバーツによる4つのマルーン化の図式(Roberts, Freedom as Marronage, p. 118をもとに編集部作成)

 はじめに確認しておきたいのは、奴隷化された人々がそれぞれのマルーン化で実践するのは、不自由の領域、つまり社会的死の状態からの脱出であるということだ。ロバーツはこの領域を、人種差別と黒人の実存の問題を取り上げた1952年の名著『黒い皮膚・白い仮面』においてフランツ・ファノンが「非存在の地帯」(zone of nonbeing)と呼ぶものと同一視する。ファノンは、非存在の地帯を「驚くべきほど不毛で乾ききった地帯、極度にむき出しにされた丘の斜面」と描写している。だが、同時に「本来的なほとばしりはここに源を発するかもしれない」とも指摘する★18。また、ロバーツは、「この地帯での生活は極めて忌まわしいものかもしれないが、それは希望と出生性の地帯なのだ」と述べる★19。というのも、白人奴隷主や植民地支配との闘争を伴うこの地帯からの逃走こそが、奴隷制に対する革命を現実化する可能性を生み出すからである。ファノンは非存在の領域を、その不毛さにもかかわらず、自由を求める逃走という人間の「本来的なほとばしり」を引き出す「奇蹟」の領域となりうると指摘する★20

 言い換えれば、いちど「非存在の地帯」への降下を経験するからこそ、奴隷たちは革命と自由というヴィジョンを描くことができるということだ。奴隷制によって生まれながらに疎外された人々は、マルーン化という非存在の地帯からの逃走/闘争を通じて、自分たちの人間としての自発性を誇示し、自分たちの「新しく始める」可能性を輝かせ始めるのである。

 ロバーツが説く「非存在の地帯」への降下の意義は、アフリカ系アメリカ人の女性として初めてノーベル賞を取った作家であるトニ・モリスンの発言にもつながるだろう。モリスンはパターソンに言及しながら次のように述べている。「社会学者のオーランド・パターソンが記しているように、啓蒙主義が奴隷制すらも受け入れ得る、ということに我々は驚くべきではない。むしろそうではないほうが驚きだ。自由という概念は空虚のなかには現れない。奴隷制ほど自由を際立たせるものはないのだ──たとえ奴隷制こそが自由を生み出したのではないとしても、である」★21

 

 続いてロバーツは、奴隷たちが「社会的死」の状態から抜け出すために実践してきた、4つの「マルーン化」の形式を紹介する。

 まず、歴史記述において書き残されてきた、カリブ海の「逃亡奴隷」が実践していたふたつのマルーン化の形式が説明される。ひとつは、奴隷が単独で行う「小マルーン化」(petit marronage)である。このマルーン化は、図式でも明らかなように個人によって実践される。その理由は様々で、他のプランテーションにいる親族や恋人を訪ねるためだったり、奴隷主から罰として取り上げられた食料や水を探索するためだったりといった短期的な逃走もあれば、反乱を計画すべく他のプランテーションの人々と落ち合うためという長期的な逃走もある。小マルーン化は、間主体的というよりは個々人の行為であり、「革命や自由といったマクロ政治」を誘引する可能性を秘めた「ミクロ政治的な因果メカニズム」である。

 もうひとつの形式は、集団によって行われる「大マルーン化」(grand marronage)である。このマルーン化で重要なのは「空間化」、すなわち、奴隷主が支配するプランテーション社会を離れ、自分たちの自由で自律した共同体を空間として実現することを目的とする。それゆえ大マルーン化は、「マルーンの共同体を承認することを前提とした自由の概念」なのである★22。だがこの共同体は、図式にあるように外からの干渉を許さず自律を希求する孤立主義的な意識によって形成されるものであり、プランテーション社会のあり方を変えるような志向性はない。

 

 このふたつのマルーン化の形式に、ロバーツはさらにふたつの形式を加える。それが「主権的マルーン化」(sovereign marronage)と「社会発生的マルーン化」(sociogenic marronage)である。

 主権的マルーン化とは、「独立という社会政治的目標が、民衆ではなく立法者による媒介とヴィジョンを通して達成される、奴隷制からの集団逃走である」★23。このマルーン化において、人々は集団で不自由の領域から自分たちの主権を確立できる空間へ逃走するが、その闘争/逃走は、図式の人々の位置関係が表すように、必ず彼らの上に立つ立法者によって導かれる。それゆえ主権的マルーン化は「孤立主義と民意の否定である。自由はボトムアップではなくトップダウンで理解される。自身と共同体の自由を達成するために行為者たちが導きを求めるのは、唯一無二の立法者、すなわち主権者である。[……]。立法者は最高位の指導者であり、社会の一員であり、意志決定に権利を持つ者であり、自由な生活を設計する者である」★24。そもそも奴隷制という抑圧的なシステムを生み出した「主権」という概念そのものが、このマルーン化の形式では自由の価値と混同されてしまっているのである。

 ロバーツによれば、主権的マルーン化の顕著な例は、ハイチ革命の最初の指導者トゥサン・ルーヴェルチュールである。当時フランス領だったサン・ドマング(現在のハイチ)では、1791年に黒人奴隷による革命が生じた。革命のなかで実権を握ったトゥサンは、1801年に憲法を制定して自らを終身総督に任じた。彼の独裁的権力に導かれた共同体において、主権は立法者の自由を確立しつつ大衆に受動的な役割を強いるものであり、それによって奴隷制において展開されていた支配と被支配のヒエラルキーが再生産されていた。

トゥサン・ルーヴェルチュールの肖像画 出典= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toussaint_L%27Ouverture.jpg Public Domain

 社会発生的マルーン化は、ファノンの「社会発生」という概念に基づいてロバーツが理論化したもので、非存在の地帯から大衆が逃走することによって自発性を取り戻し、新しい社会の形成の基盤を作り上げる形式である。「社会発生的マルーン化は、いかに革命それ自体が逃走の瞬間であるかを最終的に理解させてくれる。それは新しい秩序の先触れとなり、社会の基盤を作り直すのである」★25

 このマルーン化において大衆は、自発的に実践する逃走によって、立法者が独占する主権的自由から離れ、個人と集団の主体性を両立し、社会に属する人々が互いに「共にある」ことを可能にする政治的形態を志向する。「それは非主権的な存在の様態であり、それにおいて自由は、認知、形而上学、平等主義、逃げ場があることの希望、そして社会的政治的秩序における大衆の経験によって形作られる」★26

 図式を見るとわかるように、人々の「非存在の地帯」からの逃走の動きは権力者の「主権的マルーン化」の層を突き破り、その社会秩序の変革を求め闘争するために内側へと戻ってゆく。それゆえこのマルーン化の形式は、大衆によって実践される「社会発生的」な抵抗と言えるのである。

 

 ロバーツいわく、社会発生的マルーン化は「名づけ」、「想像された自由の青写真」、「社会の情勢」、そして「立憲主義」という4つの「基点」によって構成されており、それぞれを通して大衆が奴隷制から逃走することによって革命や自由をもたらす「マクロ政治的逃走」が展開される★27。この「マクロ政治的逃走」の例は、ハイチ革命において大衆がいかに奴隷制だけでなく立法者の主権的自由からも逃走/闘争し、自分たちの自由を行使することで社会を再生させていったかに見ることができる。

 「名づけ」は自由意志と自己決定の能力である。ハイチの大衆は、フランスの武装軍を払いのけ島から撤退させた後、1804年1月1日の独立宣言で自分たちの国家を“Haiti”と命名した。その名前は、「山の多い」または「山の土地」を意味する先住民タイノ族の言葉“Ayiti”に由来する。自分たちの先祖の土地であるアフリカに由来する言葉ではなく、カリブ海の土地の先住民の言葉を使うという選択は、アフリカ系の奴隷たちがカリブ海の土地で、すなわち新世界の風景の中で自身の文化と社会を育ててゆくという決意の象徴である。この名づけ行為は、自分たちを奴隷制によって強制的に生を支配されることによって生きる存在ではなく、カリブ海に主体的に生きる存在として肯定する、ハイチの人々の自由意志の行使と自己決定の能力の表れなのだ。

 「想像された自由の青写真」は、ロバーツが「ヴェヴェの構築術」(vèvè architectonics)と呼ぶハイチ的な美学を言い換えたものである。ヴェヴェはハイチで信仰されるヴードゥー教の儀式において地面に描かれるイメージであり、ロバーツはその中に「市民からの承認、助言、そして意見の提供もなく国家が講じる主権的決定主義と制度設計に抵抗する」大衆の象徴を見ている★28

 「社会の情勢」は大衆の利益のために行われる社会変革のことで、そこでは植民地主義の影響が残る社会の秩序が階級、人種、ジェンダーの平等といった観点から問い直される。

 そして「立憲主義」は、植民地国家フランスとの同化を志向した1801年のトゥサンによる憲法と、独立後に制定された1805年の憲法との対照性に見いだされる。1805年の憲法では大衆が持つ市民としての法律上の権利が強調されている。

 

 「小マルーン化」、「大マルーン化」、「主権的マルーン化」、「社会発生的マルーン化」という4つのマルーン化の形式は、それぞれが非存在の地帯から逃走する奴隷たちの出生性、すなわち新たに始める可能性の象徴なのである。奴隷制において、奴隷たちは社会に居場所を持っているわけではない。彼らは社会的死の状態で存在している。社会的死の状態から自発的に逃走する行為は、人間の「本来的なほとばしり」なのだ。

マルーン集団の指導者の一人(18世紀末、ジャマイカ) 出典= https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47db-c4b6-a3d9-e040-e00a18064a99 Public Domain

逃亡奴隷たちの記憶を受け継ぎ、学ぶ

 奴隷制は歴史上では終わったと言える。しかしカリブ海の歴史的経験を携えた思想は、奴隷制は現代にも生き続けていると警告する。合衆国の黒人解放運動の中心人物であり、人種やジェンダー、刑務所制度などについて発言を続けてきたアンジェラ・デイヴィスが述べるように、「もし奴隷制が死んだと宣言されたのであれば、それは同時に新しい制度、新しい慣習、新しいイデオロギーに生まれ変わったということだ」★29

 たとえば現代アメリカ合衆国の刑務所制度のように、奴隷制は現代も姿を変え、私たちの見えないところで、いやもしかしたら目の前でさえ生き続けているかもしれない。もし新たな姿の奴隷制が現れ、生まれながらに疎外を経験せざるを得ない世界が目の前に広がり、そしてその世界を愛することができないのであれば、カリブ海思想は「逃走しろ」と叫ぶだろう。

 

 「自由」やその前提となる人間の出生性の概念は、西洋の眼を通してのみだけでなく、世界の思想的複数性をもって理解されるべきである。アーレントに見られるような西洋が想定する「人間」をもとにした言説だけでは、現在も生き続ける奴隷制に直面した人々が経験する「生まれながらの疎外」を認識できない。カリブ海思想は、逃亡奴隷たちが実践した逃走/闘争という行為を「人間の条件」、つまり人間本来の出生性のほとばしりとして描く。こうして受け継がれる逃亡奴隷たちの記憶は、現代世界の奴隷制に虐げられつつも抵抗する術を見いだせない人々に、「逃走する」ことによる抵抗の手段を教えてくれるだろう。それゆえロバーツはその著書を締め括るにあたって、こう述べている。「マルーン化は未だ重要なのである」★30

 

 以上、本稿ではカリブ海に脈々と受け継がれる「逃走」と「闘争」の記憶を、ロバーツの「マルーン化」理論をもとに紹介した。私は拙著『私が諸島である』からの次の展開として、このようなカリブ海の独自の歴史と経験が、西洋中心の「人間」の言説のみでは語ることのできない人類の記憶をいかに物語っているかを紹介していこうと考えている。拙著や本稿をきっかけに、カリブ海の特異な歴史を通して紡がれてゆく思想に触れ、興味を持つ人々が増えてくれることを願う。

 

★1 Silvio Torres-Saillant, An Intellectual History of the Caribbean (New York: Palgrave Macmillan, 2006), p.1.
★2 オルランド・パターソン『世界の奴隷制の歴史』、奥田暁子訳、明石書店、2001年、32頁。
★3 同書、32頁。
★4 C・L・R・ジェームズ『ブラック・ジャコバン トゥサン゠ルヴェルチュールとハイチ革命』、青木芳夫監訳、大村書店、1991年、29頁。
★5 ハンナ・アーレント『活動的生』、森一郎訳、みすず書房、2015年、333頁。
★6 もっとも『活動的生』では、アーレントは全体的支配の犠牲となった人々が感じた「生きた痕跡が抹消される」恐怖を奴隷も感じていることを指摘している。「奴隷であることの呪いは、自由の喪失ならびに自由に割り当てられていた人前に現れるという可能性の喪失にあったばかりではなかった。暗がりのなかで無名のまま暮らす奴隷は、自分が生きていたことの証しとなるものを、自分の死後、痕跡すら残しはしないだろうと考えると、恐怖に襲われた。この恐怖もまた、奴隷であることの呪いだったのである」(『活動的生』、68頁)。
★7 Hannah Arendt, The Origins of Totalitarianism (New York: Penguin, 2017), p. 389.(強調は筆者)
★8 たとえば、Jimmy Casas Klausen, “Hannah Arendt’s Primitivism,” Political Theory, vol. 38, no. 3 (2010): pp. 394–423; Patricia Owens, “Racism in the Theory Canon: Hannah Arendt and ‘the one great crime in which America was never involved,’” Millennium, vol. 45, no. 3 (2017): pp. 403-424; Michael Rothberg, Multidirectional Memory: Remembering the Holocaust in the Age of Decolonization (Stanford: Stanford University Press, 2009); Kathryn T. Gines, Hannah Arendt and the Negro Question (Bloomington: Indiana University Press, 2014); Robert Bernasconi, “When the Real Crime Began: Hannah Arendt’s The Origins of Totalitarianism and the Dignity of the Western Philosophical Tradition,” in Hannah Arendt and the Uses of History: Imperialism, Nation, Race, and Genocide, ed. Richard King and Dan Stone (New York: Berghan Books, 2007 ), pp. 54–67.
★9 ガインズの書籍をアーレント研究者の百木漠が書評で紹介している。「アーレントは黒人差別主義者だったのか?──Kathryn T. Gines, Hannah Arendt and the Negro Question(Indiana University Press, 2014)を読む」、『政治思想学会会報』第50号、2020年、3–6頁。URL=http://www.jcspt.jp/publications/nl001_100.html
★10 Andrés Fabián Henao Castro, “Toward a Black Radical Critique of Natality: Beyond Hannah Arendt’s Biopolitics,” Critical Philosophy of Race, vol. 10, no. 1 (2022): pp. 90-105. ここでフランス領マルティニーク島出身の詩人エメ・セゼールの言葉を思い出してもいいだろう。「そうだ、ヒトラーとナチズムのやり方は、臨床的かつ詳細に研究する価値がある。そして、優雅にして人道主義的かつ篤信家の二十世紀のブルジョワに教えてやるのだ。彼の中には、まだ自らの本性に気づいていないヒトラーがいる。彼にはヒトラーが宿っている。ヒトラーは彼の守護霊である。彼がヒトラーを罵倒するのは筋が通らない。結局のところ、彼が赦さないのは、ヒトラーの犯した罪自体、つまり人間に対する罪人間に対する辱めそれ自体ではなく、白人に対する罪、白人に対する辱めなのであり、それまでアルジェリアのアラブ人、インドの苦力、アフリカのニグロにしか使われなかった植民地主義的やり方をヨーロッパに適用したことなのである。」(『帰郷ノート/植民地主義論』砂野幸稔訳、平凡社、2022年、138頁。強調は原著者)
★11 Henao Castro, p. 99.
★12 たとえばカリブ海の奴隷制における「道徳的人格」の破壊にかんしては、拙著『私が諸島である──カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、2023年)の第8章「カリブ海によるクレオール的時政学」が示唆を含んでいる。アーレントが呼ぶところの「忘却の穴」は、1492以降のカリブ海で大きく口を開いていたのではないだろうか。高橋哲哉が『記憶のエチカ』においてアーレントによる<記憶>議論を批判的に考察しつつ述べるように、「『忘却の穴』は、アウシュヴィッツやコリマやその他の場所にありえたばかりではなく、いたるところにありえたのであり、現にあったにもかかわらず、まさに『完全な忘却』であったがために、われわれの記憶の及ばぬところとなってしまったかもしれないのだ」(高橋哲哉『記憶のエチカ 戦争・哲学・アウシュヴィッツ』岩波書店、1995年、18頁)。
★13 Neil Roberts, Freedom as Marronage (Chicago: The University of Chicago Press, 2015), p. 15.
★14 Ibid.(強調は筆者)
★15 Carey Robinson, The Fighting Maroons of Jamaica (Kingston, JA: William Collins and Sangster, 1969), p. 10.
★16 Ibid., p. 7.
★17 Roberts, Freedom as Marronage, p. 118をもとに編集部作成。
★18 フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面[新訳版]』、海老坂武、加藤晴久訳、みすず書房、2020年、30頁。
★19 Roberts, Freedom as Marronage, p. 118.
★20 ファノン『黒い皮膚・白い仮面[新訳版]』、240頁。(強調は原著者)
★21 トニ・モリスン『暗闇に戯れて』、都甲幸治訳、岩波書店、2023年、66頁。
★22 Roberts, Freedom as Marronage, pp. 98–99.
★23 Ibid., p. 11.
★24 Ibid., p. 103.
★25 Ibid., p. 116.
★26 Ibid.
★27 Ibid. 
★28 Ibid. ヴードゥー教の儀式では、精霊を呼び出すために「ヴェヴェ」をコーヒー粉やコーンミール、小麦粉などを使って地面に描く。ロバーツいわく、ヴェヴェは「神々の象徴的な構築物であり、その導きの原理は、善と悪、自由と不自由の行動を組み立てていると考えられている。ヴェヴェという観念を借りれば、ヴェヴェの構築術とは、個人や集団がある理想の世界に思い描く自由の青写真を意味するものだと理解できる」(Ibid., p. 126)。
★29 Angela Y. Davis, The Meaning of Freedom: And Other Difficult Dialogues (San Francisco: City Lights Publishers, 2012), p. 140.
★30 Roberts, Freedom as Marronage, p. 181.

中村達

1987年生まれ。千葉工業大学教育センター助教。2020年西インド諸島大学からPhD with High Commendation取得。専門は英語圏を中心としたカリブ海文学・思想。2023年『私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房)を上梓。

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  • TM2024/03/27 14:55

    闘争と逃走。日本語では同じ読みの2つの言葉はずいぶん違う。しかしカリブ海においてはそれが結びつき、生まれながらの疎外への抵抗手段として記憶され続けている。 マルーン化という逃走からの闘争システムは、確かにその場で人間の条件の獲得へ闘争を始めるのとは違うスタンスだ。 今の時代正しくないことを前に逃走することは好まれない。そうしたスタンスがmetooの可能性を奪うなんて批判されかねない。 しかし、生まれながらの疎外という記憶の接続すら奪われる状況で、逃走を許さないことはそれ自体暴力性を帯びている。 硬直化した今こそ逃走からの闘争の可能性が残されるべきじゃないだろうか。 新しい気付き、ありがとうございました。

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