観光客の哲学の余白に(14) 触視的平面の誕生・番外編|東浩紀

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初出:2019年03月22日刊行『ゲンロンβ35』

 先日、『search/サーチ』と題する映画を見た。全編がPCあるいは携帯電話などモバイル端末の画面のキャプチャで作られている異色の作品である。とはいえ、けっして実験作というわけではなく、エンターテインメントとして高い完成度を示している。監督は、まだ20代のアニーシュ・チャガンティ。チャガンティは2014年にグーグルグラスの広告動画で一躍有名となり、その後グーグルに勤務し広報を担当していた。本作が初監督の長編だという。 

 ぼくはこの数回「触視的平面」について語ってきた。見るだけでなく触ることもできるインタラクティブな平面、すなわち「タッチパネル」は、これまで哲学や批評が問題にしてきた「スクリーン」とは異なる性格をもっている。21世紀はその新たな平面が生活のあらゆる場面を覆い始めた時代であり、その変化について考えることは現代社会の分析のうえで不可欠だという議論だ。 

 平面の「触視」性は、かならずしも現実に指で画面を操作するタッチパネルにかぎられるものではない。それは、いまPCや情報端末の画面に採用されている基本的なデザイン、すなわちGUIの本質を規定するものでもある。20世紀の人々は世界をスクリーン(映画)を見るように捉えていた。それに対して、21世紀の人々は世界をタッチパネル(触視的平面)を操作するように捉えているといえよう。 

 このような連載の文脈のなかにおくと、『サーチ』は現代の映像=世界感覚をみごとに切り取った傑作ということができる。

『サーチ』の映像は、まず2000年代初頭のWindowsOSのデスクトップから始まる。画面の中心でカーソルが動き(本作は情報機器の操作画面のキャプチャのみで作られているので、操作する人間は映されない)、コントロールパネルが開かれ、「新しいユーザーの追加」が選択される。テキストボックスに「マーゴット」とタイプされ、続いてビデオキャプチャのウィンドウが開く。ウィンドウには若い夫婦と幼い女の子の三人が映り、彼らの会話(音声についてはPCのマイクが取り込んでいるという設定だろう)と見慣れたインターフェイスから、映画の観客は、マーゴットが娘の名前で、彼らがいま娘のユーザーアイコンを作るため顔写真を撮影しようとしているところであることを知ることができる。マーゴットは笑顔を浮かべ、父親が指をこちら(画面のほう)に向けて、シャッターが切られる。そこで画面は暗転し、制作クレジットが流れ始める。 

 この一分にも満たない場面には、この映画の世界観が凝縮して示されている。『サーチ』の世界では、子どもを作るとは「新しいユーザー」を作ることである。そして子どもを育てるとは、カレンダーに予定を入れ、写真や動画を撮影し、それらをフォルダにまとめて整理することなのだ。制作クレジットのあと、映画は、マーゴットの成長を記録するデスクトップの画面をつぎつぎに映し出していく。観客は、マーゴットが幸せに育ったこと、ピアノを習ったこと、そして母(パメラ)が、彼女が小学生のときにリンパ腫によって亡くなったことを知る。その死もまた、デスクトップ上でのフォルダ操作によって示される。 

 物語の本編は、母の死の数年後に始まる。そこでの主人公は、こんどはマーゴットの父、デイヴィドである。 

 母の死ののち、父娘の関係は希薄になっている。生活時間もすれちがい、連絡はメッセンジャーでとりあっている。そんなある日、マーゴットが失踪する。ところがデイヴィドは、娘の予定も友人の連絡先もなにも知らない。しかたなく彼は残されたラップトップを起動する。そしてフェイスブックや動画配信サービスのアカウントにアクセスすることで、娘の生活を再構築し、失踪の真実に迫っていく。 

『サーチ』の物語はそのように要約できるが、鑑賞後にとにかく印象に残るのは、デイヴィドが、娘の失踪という深刻な事件をまえにしても、ただひたすら検索と電話ばかりをし続けていることである。彼は娘の情報すらグーグルで集めようとし、ネットワークの外にほとんど足を踏み出さない。それはむろん、全ショットを画面キャプチャで構成するという、作品自身の野心的な構想によって要請されたシナリオだろう。けれども同時に、現代人の描写としてたいへんリアルなものにもなっている。デイヴィドは西海岸在住のシステムエンジニアとして設定されている。監督自身グーグルに勤務していたことを思えば、そこには痛烈な自己批判と風刺が込められているのかもしれない。 

 現代人の生は触視的平面に支配されている。ぼくたちは世界を触視的平面を通して認識し、世界に触視的平面を通して働きかける。友人との会話も職場との連絡も予定の管理も新聞の購読も、そして亡くなった家族の思い出の整理さえ、すべてがPCや情報端末の画面を通して行われる。『サーチ』は、そのような現代人の生をみごとに物語に変えてみせているのだ。 


 しかし、この作品でほんとうに驚くべきなのは、チャガンティがそれを物語に変えたことではなく、むしろぼくたちがそれを物語として読み取れることのほうかもしれない。

 さきほどから繰り返しているように、この映画には画面のキャプチャしか存在しない。一時間半強の上映時間のあいだ、ぼくたちが見るのは、デスクトップのうえを動くカーソルであり、開いては閉じるウィンドウであり、不可視の指がタイプする文字列である。 

 人間の顔が登場しないわけではない。主人公のデイヴィドは、エンジニアという職業のせいか、やたらと――本来の用途を考えるといささか不自然なほど――FaceTime(アップルの動画通話アプリケーション)を利用する。そのため、要所要所では俳優の演技と会話が映され、それこそがこの作品の娯楽性を支えてはいる。 

 けれども、この映画では、それらの会話がなぜいつどこで行われたかを正確に理解するためには、それら俳優の演技を見るだけでなく、並んで開いたメーラーやSNSなど、べつのウィンドウで示されたタイムスタンプやアイコンの意味をきちんと読み取る必要があるのだ。ときにはそこに重要な伏線も隠されている。 

 つまりは『サーチ』を「観る」ためには、観客は俳優を見るだけではいけないのである。観客は、その演技の意味を、ぼくたちの生を取り囲むインターフェイス=触視的平面のなかに置き、その操作経験に照らし合わせて頭のなかで組み替えて、いわば「モンタージュ」して見なければならないのだ。むろん、観客のほとんどはそんな操作を意識していない。その操作は無意識で行われている。だからこそこの作品は娯楽として成立している。けれどもそれは確実に行われている。もし観客が、グーグルもフェイスブックもYouTubeも、いやそれどころかWindowsOSもMacOSも知らなかったら、『サーチ』はまったく映画として成立しなかっただろう。おもしろいとかおもしろくないとか以前に、観客は端的に、そこでなにが語られているのか、さっぱり理解できなかったはずだ。 


 多少とも映画批評や映像研究の言説に親しんでいればわかるように、『サーチ』のこの性格は、理論的にはかなり興味深いことを示している。ジジェクはかつて、ひとは映画を見るとき、スクリーンのなか(俳優)に同一化するだけでなく、スクリーンのそと(カメラ)にも同一化しているのだと説いた。ところが『サーチ』の鑑賞においては、その二重化が、画面の内部と外部ではなく、同じひとつの画面のなかのふたつのウィンドウ、つまりFaceTimeのウィンドウとメーラーやSNSのウィンドウのあいだで行われている。FaceTimeの動画を、メーラーやSNSの情報と照合し「相対化」するときにいったいなにが起きているのか、それはフェイクニュースとポストトゥルースの時代に生きるぼくたちにとってじつに興味深い問題だが、これ以上の分析はまたべつの機会に譲りたい。 

 生活のすべてが触視的平面に記録され、世界のすべてが触視的平面を通して認識される時代。『サーチ』は、そのような現代人の生をうまく物語に落とし込んだ作品だが、それだけではなく、すべてがインターフェイスの画面だけというじつに大胆な表現を人々がなんなく受け入れることを証明したという点においても、まさに「タッチパネルの時代」を体現する作品だったといえるだろう。本作は映像史に残るにちがいない。

 ぼくは本作の劇場公開を見逃したので、27インチのiMacで鑑賞した。それはじつに奇妙な体験だった。動画再生を全画面表示に変えると、モニタいっぱいに『サーチ』の画面が表示される。けれどもそこに映された画面もまた、正確な解像度はわからないが、おそらくは似たようなサイズのMacOSのデスクトップなのだ。 

 もちろん、落ちつけば両者は区別できる。そもそも『サーチ』に登場するOSの表示言語は英語だが、ぼくのOSは日本語だ。それでも、『サーチ』の再生をしばらく静止してデスクトップに戻ってくると、自分がいま見ているのが『サーチ』の画面なのか、それとも『サーチ』を再生しているOSの画面なのか、コンマ数秒のあいだ身体が混乱してしまう。『サーチ』自身の再生を再開しようとして、ぼくはいくどか、現実のマウスに手を伸ばし、『サーチ』の画面内に表示されたカーソルを動かそうとしてしまった。 

 この目眩にはきっと、フェイクニュースとポストトゥルースの謎の雛形が隠されている。
本連載は『ゲンロンα』への再掲にあたり番外編を含めて通し番号を振り直したため、初出時とはナンバリングが異なります。(編集部)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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