観光客の哲学の余白に(23) 無料という病、あるいはシラスと柄谷行人について|東浩紀

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初出:2020年11月20日刊行『ゲンロンβ55』

 本誌の読者にあらためて紹介する必要はないと思うが、「シラス」という配信プラットフォームをつくった。10月19日にオープンし、すでに5000人を超える登録者がいる。ゲンロン完全中継チャンネルの視聴者も、半数以上がニコニコ生放送からシラスに移行している。 

 ゲンロンに社内エンジニアはいない。だからシラスの制作は開発会社に発注して行われた。けれどもその進行を管理するのはゲンロンだ。つまり言い出しっぺのぼくである。ぼくはこの1年ほど、業務時間の多くを、Slackのうえをすごい勢いで流れていくシステムの説明やら仕様の確認やら優先度の変更やらとの格闘に費やしてきた。ぶじ放送が始まり、胸を撫で下ろしている。 

 文系の大学院を出て基本的にはもの書きとして生きてきたぼくにとって、シラスの開発ははじめての体験の連続だった。IT業界には独特の言い回しが多い。たとえばみなさんは「チケットを出しておいてください」と言われて、なにを思い浮かべるだろうか。ぼくは最初、新幹線の乗車券でも買いに行くのかと思った。じっさいにはITの開発現場では、作業単位を「チケット」と呼ぶ。チケットを出すとは、プロジェクトの一部を切り出して期日や優先度を明確にし提出することで、「起票」とも表現する。ぼくのシラス開発は、そんな基礎的な日本語を覚えるところから始まった。50歳近くでこんなふうに異業種の現場に飛び込むことじたい、めずらしい経験にちがいない。いつかエッセイのネタにでもできたらと思う。 

 シラスは、AWS(アマゾン・ウェブ・サービス)というクラウドのコンピューティング・サービスとほかいくつかのサービスを組み合わせることで、動画配信を可能にしている。ぼくはコードひとつまともに書けないが、専門家の議論をこの1年横目で見ていたおかげで、クラウドの仕組みについてもそれなりに詳しくなってしまった。そういう意味でも貴重な経験だった。 

 

 



 ところで、そのシラスは、サイトのトップに記したように、無料では配信「しない」という哲学でつくられている。今後ゲンロン以外の配信者を増やしていく予定だが、彼らにも有料配信を求めることになっている。それは運営側の要望ということではなく、シラスはそもそも設計として、チャンネルの月額価格や番組の個別価格に応じて「放送可能時間」が計算され、その限度内でしか配信できない仕組みになっているのだ。これはぼくの強い希望で実装された。 

 このような仕組みにしたのは、ひとことでいえば、無料こそが諸悪の根源だと考えているからである。この主張は常識に反しているので、読者は戸惑うかもしれない。 

 クリス・アンダーソンが2009年に『フリー』を出版して以降、ネットではサービスを無料=フリーで提供するのが「よいこと」で、ビジネスとしても「賢いこと」であるという思考が定着している。アンダーソンは「ネットではサービスを無料にしたほうが結果的に儲かる」という逆説を強調したにすぎないが、それは、遠く近代以前に遡るユートピア思想の伝統を強く刺激する主張でもあった。プラトンからマルクスまで、哲学者はむかしから、商品交換と私有は貧困や争いを生むものでしかなく、贈与と共有の社会こそ望ましいと繰り返し主張してきた。ネットは後者の理想を、共産主義のようなイデオロギーの押しつけによってではなく、テクノロジーとビジネスモデルによって実現する新しい方法だと受け取られたのである。GAFAがあれば国家は要らないと主張されたり、AIとベーシックインカムの関係について熱心に議論されたりするのは、そのような「有料が生み出す社会問題を無料(とテクノロジー)が解決する」という見かたが広く共有されているからだ。 

 しかしその見かたはほんとうに正しいだろうか。むろん無料が善であるときはある。お金がない飢えたひとには無料で食べものを配るべきだ。 

 けれども、アンダーソンの著作から10年強、じっさいにネットで配られたのは食べものではない。ニュースやエンターテインメントやユーザーの評判である。そして、それらの無料配布は、いまのところあまり問題の解決には役立っていない──とはいえないにしても、同時に新しい問題を生み出しているように思われる。ニュースの無料配布はポストトゥルースとフェイクニュースを生み出し、エンターテインメントの無料配布はひと握りのYouTuberに富が集まる不健康な生態系を生み出し、評判の無料配布は荒廃したSNSを生み出した。 

 なぜこうなったのか。それは、ふたたびひとことでいえば、ネットの無料はほんとうの無料(贈与)ではないからである。

 データの送受信は無料ではない。費用がかかる。加えてコンテンツの制作にも費用はかかる。ふだんわたしたちは意識しないが、ニュースにしろ動画にしろSNSにしろ、膨大なサービスを無料で享受できるのは、その費用をプラットフォーム企業が肩代わりしているからだ。 

 そしてなぜ企業が費用を肩代わりするかといえば、それは結局のところ、その損失が最終的に広告費やらバイアウト(企業買収)やらで埋め合わされるはずだからである。それこそが、アンダーソンが強調した逆説だった。背景には、情報技術が可能にしたスムーズな大規模化(スケーラビリティ)と金融資本主義の強い親和性がある。おそらくはその親和性こそが現代社会の最大の問題なのだが、それはそれとして、当面この状況が意味するのは、ニュースだろうと動画だろうとSNSだろうと、ネットで無料でサービスを提供する企業は、その特性に関係なく、すべていちように、より多くの広告を集め、より高い企業価値を実現するため、できるだけ多くのユーザーを獲得することを運命づけられてしまうということである。かくして、あらゆるネットサービスは、みな「数」の最大化を目標として、たがいに驚くほど似たアーキテクチャへ収斂し(最近の例であれば、結局はインスタグラムのストーリーそっくりの機能を導入することになったツイッターがわかりやすい)、流れるコンテンツも驚くほど似たタイプの表現に収斂していくことになる。ぼくたちがいまむかっているのは、世界中のあらゆるひとが、同じデザインのデバイスを使い、同じデザインのアプリを開き、同じようなニュースに「いいね」を押し、同じような動画や投稿を拡散するディストピアだ。無料は文化の多様性を殺しつつあるのである。 

 この流れはしばらく変わらないだろう。そもそも文化の画一化は歴史の必然なのかもしれない。とはいえ、ぼくはその状況に心底うんざりしているし、少しでも抵抗したいと考える。だからシラスは有料にした。 

 シラスは広告を掲載しない。投資を募ることもない。だからスケールを追求する必要がなく、画一化を運命づけられることもない。 

 けれどもそのかわり、シラスはサービス提供費用の肩代わりができない。シラスはコンテンツをつくらないが、AWSには毎月利用料を払わねばならないし、開発費や保守費もかかる。その費用を配信者と視聴者とプラットフォーム(シラス)でシェアする、できるだけ公正かつ維持可能な仕組みをつくる。そして、「数」の最大化の論理とは無縁な、好き勝手にできる独立の場をネットのうえにつくる。それがぼくの目的である。シラスの試みは、大きくいえば、文化の多様性を守るためのぼくなりの社会運動なのだ。 

 運動という言葉は、あまりに手垢に塗れているので使いたくないのだけれど。

 



 このようなことを考えているので、シラスの開発の途中から、マルクスや共産主義の言葉を意識することが多くなった。 

 ぼくは1971年生まれで、高校3年生の秋にベルリンの壁が崩壊している。だから大学に入ったときは、世間ではすでに自由主義と市場経済の勝利──フランシス・フクヤマのいう「歴史の終わり」──が常識となっていた。 

 けれども大学ではまだ「左翼」の影響が強く、とくにぼくは人文系の大学院に進んだので、基礎教養としてマルクス主義を学ぶ必要に迫られた。近縁に活動家どころか大学関係者すらひとりもおらず、革命やらゲリラやらに惹かれたことがいっさいないぼくにとって、マルクス主義の理念やその影響を強く受けたポストモダニズムの政治的主張には首を傾げることが多かった。それでも若いとはおそろしいもので、勉強しているうちにそれなりの勘は働くようになり、博士論文を書けるぐらいにはなった。けれども、いま振り返れば、のち大学や論壇を離れることになったのは、この「左翼への違和感」こそが遠因だったように思われる。左翼でないと、端的にまわりと話が合わなかったのだ。 

 だからぼくはいままで、自分の著作でマルクスに触れたことがほとんどない。経済も語ったことがない。むしろ苦手意識があって避けてきた。 

 ところが、シラスに関わるなかで、だんだんと意識が変わり、資本とか階級とか労働とか剰余価値とかいった概念についても、いまならば自分なりの思考を展開できるような気がしてきたのである。というわけで最近は、『資本論』を読みなおしたり、ロバート・オーウェンの業績を調べたりしている。これもまた、異業種の現場に飛び込み、いままで使わなかった頭を使ったことの副産物だ。 

 

 



 最後に。柄谷行人は、2010年に出版された大部の『世界史の構造』で、人間社会のかたちを定めてきたのは、生産様式ではなく「交換様式」だという主張を展開している。 

 同書の整理によれば、人間がものを交換する様式には、歴史的に「互酬」「略取と再分配」「商品交換」の3つのタイプがある。互酬とは、おれがこれをあげたからおまえもそれをくれというもので、共同体的な贈与や共有の原理となる交換様式である。略取と再分配というのは、おまえらのものをおれのもとに集めろ、そのあとで配りなおしてやるというもので、国家の原理となるものだ。そして商品交換というのは、読んで字のごとく、おれはこれを売る、かわりにおまえはそれを売ってくれというもので、いわゆる市場がそこから生まれる。この3つの交換様式は、それぞれ固有の権力や統治形式を生み出すのであり、じっさいの人間社会は多かれ少なかれ3種の混淆になっている。

 柄谷がこのような議論を組み立てたのは、彼が、近代以降を単純に資本主義の時代だと捉える教科書的なマルクス主義の歴史観に飽き足りなかったからである。現代世界はたしかにグローバル資本主義に覆われているが、統治機構としての国家の存在感はいっこうに小さくなっていないし、ネーション(民族共同体)を求める声もかつてなく強い。なぜそんな状況が生まれているかといえば、市場と国家とネーションは、そもそもが異なった交換様式に根ざしており、自律して動いているからだというのが柄谷の答えだ。つまりは互酬がネーションを生み出し、略取と再分配が国家を生み出し、商品交換が市場を生み出しているというわけだが、さらにいえば、近代社会の厄介さはその3つがじつに緊密に結びつきひとつのシステムを形成していることにある。『世界史の構造』はそれを「資本=ネーション=ステートの三位一体」と呼んだ。 

 ぼくはこの大著をはじめて読んだときは、柄谷のむかしからの読者であることがかえってわざわいして、そのあまりに壮大な構想をうまく咀嚼できなかった。柄谷といえば、大きな体系や理論を構築するのではなく、むしろその妥当性を疑う「脱構築」志向の「批評家」だという先入観があったからである。 

 それから10年の時間が経ち、年齢を重ねさまざまな経験──とりわけ会社を経営するという経験──を積んだせいか、いまのぼくは、「資本=ネーション=ステート」の分析がこの世界をよくするために必要不可欠であることを、理論的にも生活実感的にも素直に納得できるようになっている。交換様式に注目をという同書の呼びかけは、2020年のいまも輝きを失っていない。 

 にもかかわらず、だからこそ残念に思うのは、柄谷がそこで交換様式の話を最後まで貫いてくれなかったことに対してだ。 

 じつは柄谷は同書で、前述の3つ以外にもうひとつ「交換様式D」という第4の交換様式があり、それこそが「資本=ネーション=ステート」を乗り越える鍵となるはずだという、じつに魅力的なアイデアを記している。にもかかわらず、その新たな交換がどのようなものなのか、その内実はまったく語られることがない。そして同書の出版後も語られていない。 

 かわりに柄谷が展開し続けているのは、そのだれもみたことのない第4の交換様式に基づき生まれてくるはずの組織や運動について、すなわち「世界共和国」や「アソシエーション」についての、じつに抽象的な、宗教的とさえいっていいような響きをもつ言説である。そのような主張に未来への希望を感じ、惹きつけられる読者も少なくないようだ。その思いは尊重したい。けれどもぼくは、交換様式こそがすべての基礎にあるという『世界史の構造』の洞察に忠実であるならば、まずはその新たな交換がどのようなものなのか、そのかたちこそが愚直に探求されるべきではないかと考える。 

 

 



 すべてを共有するのでもない、すべてを一元管理するのでもない、かといってすべてを市場に任せるのでもない、第4の交換とはいかなるものだろうか。それはもしかしたら、いまのネットでだれも目指していないだけで、ほんらいはネットでこそ実現できる交換なのではないか。 

 むろん、シラスがそんな大それたものだとは思っていない。けれども、AWSのギガバイトあたりの転送料金を調べたり、放送可能時間の計算式を組み立てたりしながら、ぼくがずっと考えていたのはそんなことだった。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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