世界は五反田から始まった(10) 疎開|星野博美

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初出:2019年10月25日刊行『ゲンロンβ42』
 父と私は、戸越銀座にある同じ品川区立の小学校の出身である。選挙があるたびにその小学校を訪れる。昨今はセキュリティが強化されて自由に出入りすることができないため、選挙は母校を訪れるまたとない機会でもある。

 校門から中に入ると、かつて私も耕したことのある小さな水田がある。その水田の前には銅像が立っている。二宮金次郎ではなく、愛らしい女児の銅像だ。防災頭巾をかぶり、布製の鞄を斜めがけにして、もんぺを履いた女の子である。ぷくぷくと太り、満面の笑みを浮かべて、実にかわいらしい。ほとんどの人はその存在にすら気づかず素通りしていくが、私は必ずこの銅像に軽く会釈をすることにしている。像の足元に貼りつけられた銅板のプレートはすでに風化が始まり、かなり読みづらくなっているが、こう書かれている。

「私たちが小学生のとき戦争がありました。戦争は相手の国の人々との殺し合いです。
 空襲で家を失い、懐かしい校舎も焼かれ、大好きな先生も戦死され、友達もたくさん失いました。学童疎開では、毎日家へ帰りたくて泣いてばかりいました。
 私たちが経験したこの恐ろしい戦争が、再びあなた方の前に起きてはならないし、起こしてはいけないのです。
 何よりも生命を尊び、平和を大切にしていかなければなりません。
 一九四四年に六年生だった卒業生より」


 この銅像は卒業生からの寄付金で作られ、平成11(1999)年3月に完成した。そしてその年の卒業式、6年生とともに、「1944年の6年生」が一緒に卒業式を行った。彼らが卒業するはずだったのは、1945年3月。周知の通り、東京大空襲があった月だ。

 その老いた卒業生の中に、当時66歳だった父がいた。「お向かいのMさんの孫と一緒に卒業したんだよ」と、思い出しては照れ笑いをする。

 戦争の激化に伴い、都市防衛の強化と学童身命の防護を目的に、政府が学童集団疎開を閣議決定したのは昭和19(1944)年6月30日のことだった。品川地域では、第一陣として8月4日に城南第二国民学校が西多摩郡瑞穂町へ出発。続いて諸学校が八王子市、西・南多摩郡、静岡県、富山県へと学童たちを送り出した。静岡に疎開した児童たちの一部は、静岡が米軍の攻撃対象に含まれているという理由から、さらに青森へ疎開。八王子に疎開した児童の中には、終戦間際の八王子空襲によって命を落とした子どももいた。
 現在の品川区を形成する品川・荏原地区別で疎開先を見ると、品川地区の疎開先が東京三多摩地区、荏原地区は静岡(のちに青森)と富山だった。父が学童疎開をしていたなら、静岡か富山になっていたはずだ。東京都から集団疎開した学童は23万7千人といわれる。

 しかし父は幸運にも(と言ってよいだろう)、学童疎開をせずに済んだ。戦争の激化を懸念した祖父が、もう1軒家を買い、家族を独自に疎開させたからだ。学童疎開させない方針は、実は祖母の意向が強かった、と父は言う。ふだん自己主張などほとんどしない祖母が、子どもを手放すことについては断固拒否したのだそうだ。

 軍需部品を作る祖父は、仕事が忙しくなればなるほど、軍からの突貫工事の依頼が増えれば増えるほど、戦争の激化を肌で感じられる立場にあった。黙々と軍の下請けをこなしながら、戦火を避ける算段をひそかに考え始めていたのだ。

 これからも時々空襲もあるのではないか。田舎の親せき等へソカイする人も出て来た。又小学校の生徒も集団で山国のお寺とかお宮へソカイする学校もあった。
 私も玉川に近い町に二十五坪(当時二万円)の家を買ってあった。が玉川でも戸越でも空襲は殆ど同じ、も少し遠い山辺の方へソカイすべく毎朝の様に新聞を見ては出かけてみたが適当な所はなかった。


「山国」「山辺」というざっくりした書き方が、外房の漁師の息子だった祖父らしい。米軍機は海のほうからやってくる。山のほうがより安全だ、という感覚があったのだろう。

 祖父が言う「玉川の家」だが、私が祖父から実際に聞かされたのは「大森の家」だった。しかし父に確認すると、「雪ヶ谷だ」と言う。大森なのか、雪ヶ谷なのか……。調べてみたら、なんということはなく、当時の住所表記が「東京都大森区雪ヶ谷町」だっただけのことだ。この家に父は一度も行ったことはないが、こちらは比較的早くから手に入れていたらしい。
 そしてようやく、手ごろな物件が見つかった。埼玉の越ヶ谷から目黒に通勤している取引先の「宮田製作所」の宮田さんが、生まれ故郷の北海道に疎開することを決め、越ヶ谷の家を売りたがっていたのだ。祖父は即断してその家を購入することにした。

 戸越から約二時間(池上線戸越銀座から乗り五反田から国鉄上野乗換へ北千住乗換へ東武線越ヶ谷下車徒歩十五分)の所です。土地三百坪、家二十坪、瓦葺倉庫四坪、隣に田百五十坪(小作に造らせていた)、建築好きの宮田さんの事、実に立派なしっかりした築三年くらいの家であった。庭には梅の古木二本(梅三斗位とれた)、柿八本、あんず三本等があった。倉庫には一年分位の薪が積んで有り、家の床下にはじゃがいもが一ぱいあった。後困らない様残して置いてくれた。
 値段は三万七千円で買い求め、引っ越したのは十九年八月でした。私も一日おき位に東京へ通った。前の玉川の家は二万一千円で他に譲ったが、空襲でも焼けづに残って居た。


 宮田さんは、戦後北海道から目黒に戻り、父の代でもお得意さんだった。

 うちでは家族の間でよく話題に上がる、1つの疑問があった。

 父は疎開先の越ヶ谷で地元の子たちから「もやしっこ」といじめられたため、埼玉が嫌いになってしまった。なぜ祖父は自分の故郷であり、親戚が多く、周囲からのサポートをいくらでも受けられる外房の御宿・岩和田を疎開先に選ばなかったのか。祖父が縁もゆかりもない越ヶ谷を選んだことは、ずっと家族の間で疑問として残っていたのである。

 しかし手記を再読するうち、なんとなくその理由が見えてきた。

 島国の日本では、敵は必ず海の向こうからやってくる。故郷の岩和田は、太平洋にはりついた集落だ。祖父は、海から少しでも距離をおきたかったのかもしれない。

 もう1つは食糧問題である。祖父の故郷は漁村で、魚は太平洋で勝手にとることができるが、耕作地はまったくない。疎開は第一に空襲を避けるためのものであるが、そこで食糧に困るようであれば、移動する甲斐がない。宮田さんが困らないように残しておいてくれた薪やじゃがいも、庭の果樹の記述が登場するあたり、食糧事情を重視していた様子がうかがえる。

 父によると、庭にはもう1種類、いちじくの木が3本あった。

「そのいちじくが、おいしくておいしくて」

 父がいちじく好きだったとは、初めて知った。
全校の三分の二以上は農家の師弟でしたが、食糧事情が悪くなるにつれお弁当はコマッタ。農家の子供は銀しゃりといって真っ白なお米のお弁当を持って行かれたが、ソカイ者の子供はじゃがいもやすいとん等の人も居て可愛そうな様でした。当時主食米の配給は育ち盛りの子供には一食分くらいの分量しかなく、殆ど代用食でした。子供も母が畑で働いて居るので、じゃがいもやすいとんを造る手助けをよくして居た。近所に農家があるので物々交換とか、いくらか高いお金なら米も何とかなったのですが、成る可く代用食で間に合う様にした。


 私は麦が好きで、ふだん白米に押し麦を混ぜて食べるのだが、父は絶対にそれを認めず、いまだに銀シャリしか食べない。銀シャリを食べられなかった恨みは大きいのだ。

 これまで父に「越ヶ谷時代のことを聞かせてほしい」と頼んでも、「ほとんど忘れた」の一点張りで、なかなか話してくれなかった。ところが最近、どういう風の吹き回しか、夕飯を食べている時など、ポツポツと断片的に話してくれるようになった。

 人から昔話、特に戦争時代の話を聞き出すのは本当に難しい。私は四六時中そのことを考えていて、相手を質問攻めにしてしまったりするのだが、あいにく向こうは常にそのことを考えているわけではないし、積極的に思い出したいとも限らない。

 記憶を思い出すという行為は、人によって得手不得手がある。優劣、ではなく、得手不得手だ。記憶の検索が得意な人、たとえば私の母の記憶の保管庫は図書館のようで、かつてどこの図書館でも備えられていた図書目録カードのように整理整頓されており、質問に応じてピッピッと的確なカードが検索され、記憶が飛び出してくる。

 一方、思い出しが不得手な人、たとえば父の記憶の保管庫は、シリコンのような弾力性のある素材でできた金魚鉢に似ている。誰もが年齢を重ねれば記憶の総量が減る。すると金魚鉢の背丈が低くなっていき、最近の記憶から先に、水のように外へ流れ出していってしまう。昔の記憶は、金魚鉢の底に堆積して、手つかずのまま眠っている。私が知りたいことは、この堆積した砂の中にある。しかし金魚鉢の外からいくら呼びかけても、底の砂はなかなか浮かび上がってこない。何かの拍子に鉢の中の水が撹拌され、砂が浮かび上がってきた瞬間に掴むしかない。

 それが父の場合、食糧難の時代だっただけに、食事の時間に撹拌されることが多いのだった。

 祖母は庭でじゃがいも、なす、きゅうりを作っていた。子どもたちは田んぼのあぜ道に生える野ビルを摘み、持って帰るのが日課だった。ネギの代用食だ。

 悲しい記憶として残っているのは、2つのエピソード。1つは、クラス全員でイナゴをとりに行くと、1匹も捕まえられずに地元の子どもたちからバカにされたこと。もう1つは、越ヶ谷の家の前を通る一本道を、牛が連れられていくのを見るのが哀しくてしょうがなかったこと。
 ある日父は、好奇心にかられて牛のあとを追っていき、そこで牛がハンマーで頭を一撃され、屠畜される姿を見てしまった。その様子に衝撃を受けた父は、二度と牛のあとを追わないようになったが、一方ではこうも思ったという。

「越ヶ谷にいた時、牛肉なんて一度も食べたことはない。とにかく野菜しか食べた記憶がない。それなのに、日々、近所で牛が屠畜されていた。こんな時代でも、どこかで牛肉を食べてる奴がいるんだな、と思った」

 米の話にも触れておきたい。ここは、戦時中でも米に困らず、戦争激化前は別荘滞在者、激化後は疎開者を受け入れる側だった母の記憶に、補ってもらうことにしよう。

「戦争で食糧事情が悪くなると、都会と田舎の立場が逆転するのよ。米を持つ人間が一番強くなる。都会から来た人たちは、言われた値段で米を買うか、着物や珍しい物と米を交換してもらうしかない。ところが足元を見られて法外な値段をふっかけられたり、『着物ばかりもらってもしょうがない』と意地悪されたりね。『こんな高価な着物が、これだけの米にしかならなかった』と泣かされた人をたくさん見たよ。うちは、近くに疎開していた石井子爵の家から、米と引き換えにミシンと勉強机をもらった。四本足の勉強机が子ども心に嬉しかったよ。戦争になったら、とにかく米。覚えておきなさい」

 そんな話を聞くと、祖父が書いた「いくらか高いお金なら米も何とかなった」という表現が、なかなか含みをもって響いてくる。

 



 子どもだった父は疎開先で多少辛い思いをしたようだが、それでも戸越銀座で死ぬよりはましだ。祖父が、戸越銀座が焼けることを想定して早め早めに行動していたこと、さらに疎開先の選定にあたって細かい点を考慮することも忘れなかった点を再認識し、私は新鮮な驚きを感じている。

 すべては、自分たちが生き残るためだ。

 祖父は、なかなかに聡い小市民だった。

 日本では、戦争で「みんな」がどれだけ苦労したかを語ることは好むが、どのような手段を使って個人が生き残ったか、あるいは逃げ延びたかをあまり伝えたがらない傾向がある。平時でさえ「あいつはうまくやった」の類が好きではないというのに、ましてや国民総動員、徴兵、一億玉砕、隣組による監視体制が強まる戦時中、生き残ろうとすることにはそれなりの同調圧力がかかっただろう。

 祖父は年端もいかない私たちに向け、なんとか死ぬ前に、生き残りの術を伝授しようとしていたのではないか、という気がし始めた。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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