世界は五反田から始まった(22) 武蔵小山の悲哀(4)|星野博美

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初出:2020年10月23日刊行『ゲンロンβ54』

 図書館で品川区の戦前の資料を探していたら、『上蛇窪ムラばなし百話 米屋トモヱ・聴き書き』(米屋陽一・編著 2011年)という、自費出版の本を見つけた。これは品川区豊町(旧名・上蛇窪)5丁目に暮らした、大正10年(1921)生まれの米屋トモヱさんの昔話を、子息の陽一さんが聴き取り、卒寿(90歳)のお祝いに出版したものだ。何の気なしに手に取り、ぐいぐい引きこまれた。

 生まれついての語り部のような人が、世の中にはいる。人生で見聞きした様々な場面を、カメラのシャッターを切るように次々と切り取り、まるごと記憶し、そこになんらかの物語を発見して、おもしろく語れる人。そういう人を、「記憶冷凍保存系語り部」と仮に命名しておく。見ず知らずのトモヱさんの語りは、隣近所のおばあさんの昔話のように私には読める。

 私の祖父、量太郎も、語り部系の人物だった。幼い頃に私も祖父から昔話を聞かされたが、なにぶん8歳の時点で祖父が死に、それ以上、物語が増えなかった。その代わり祖父は手記を残してくれたが、それも死期との追いかけっこで、途中で終わってしまった。もっと長い時間を祖父と過ごしたかった。

 一方、とにかく過去をどんどん消去し、前だけを向いて生きる人もいる。忘れっぽいというより、忘れることを未来に向けた原動力とする、といった趣だ。仮に「忘却原動力系」としておく。

 波乱万丈な人生を送った人が語り部になるとは限らず、平穏な人生を送った人に語るべき物語がない、というわけでもない。口下手、饒舌も関係ない。語るべき物語はたくさんあったにもかかわらず、耳を傾ける人がいないまま、人生を終える人もいる。性別もあまり関係ない。

 私自身が大家族で育ち、また香港で大家族を持つ友達が多かった経験から言うと、おもしろいのは、家族の中に語り部系人物が1人でもいる場合、その近くには必ずといっていいほど、忘却系人物が生息していることだ。家族の成員が全員、過去に拘泥していたら、経済活動がストップしておまんまが食えない。しかし、全員が忘却したら、生き延びるための知恵や技術が集積されない。両種の人間がいたほうが、共同体の維持には都合がいいのだ。家族という小さな共同体をうまく回転させるため、記憶担当者と忘却担当者で自然に役割分担をするのである。

 戦争時代の話を聞くとしたら、私にとって最も身近な対象者は、五反田に生まれ、疎開時以外に家から離れたことのない父だ。これまでも、何度となく取材のようなことを試みてきた。しかし父は完全に「忘却原動力系」の人で、戦時中の話をほとんど覚えていない。いつからいつまで疎開をしたのか、どこの中学へ行ったのか、教室に他にも東京から来た生徒はいたのか等々、まるで覚えていない。父が覚えていない話を、祖父の手記で確認するという本末転倒ぶりなのだ。「なぜ何も覚えていないのか?」とこちらは愚痴の1つも言いたくなるが、「働くのに必死だったから」と逆襲される。こればかりは個性の問題で、私が責める筋合いでもない。もっと覚えていてくれたらよかったのに、と残念に思うだけだ。

 ともあれ、トモヱさんの本にこんな件があった。


今「目黒」(信用金庫)の前あたりの人たちの一角はね、満州行ったのよ。お風呂屋さんの前。今の「目黒信用金庫」の向こう側。お風呂屋さん。二葉町の方の人たちは満州に開拓に行っちゃうの。行き所ないじゃない。家は壊されちゃう。それで集団で満州に。(中略)



武蔵小山の商店街はほとんど行ったんだよ、開拓に、満州に。いっぱいいるよー。ここにいる人もいるだろうけど帰れない人もいるし。商店街だったけども、やっぱし商売ならないんで働けないで、それで「満州開拓に行った方がいい」って満州行ったのよ。(建物の)強制疎開の人たちだって家ないじゃない。★1


 二葉町といえば、東急大井町線・下神明駅から戸越公園駅にかけたあたり。あの界隈からも、満州に出ていたとは……。

【図】大五反田概略図。五反田駅を中心とする円が「大五反田」。濃い楕円で囲んでいるのが、今回言及した戸越公園駅~下神明駅界隈
 

「家が壊される」とは、戦時中、東京やその他の都市で行われた建物疎開(強制疎開)のことだ。

 戦局が不利になるにつれ、防空上の理由から建物疎開が喫緊の課題になりつつあった。昭和19年1月26日、内務省は東京と名古屋に初めて強制建物疎開の第1次指定を行った。これらの指定には、疎開空地帯(既存の空地や河川・鉄道などを利用して密集地帯に設ける)、重要施設疎開空地(重要工場の周辺)、交通疎開空地(駅周辺)、疎開小空地(家屋の密集している小地帯を単位に設ける)という区分が採用された。

 いまもそうだが、戦前の荏原区(現在の品川区の南半分にあたる)には木造建築が密集していた。空襲を受けた場合の延焼を防ぐため、指定を受けた地域の民家や建物は強制的に取り壊されたのだった。

『東京満蒙開拓団』(東京の満蒙開拓団を知る会編、ゆまに書房、2012年)に、「武蔵小山から少し離れ」たところから満州へ渡ったAさん(2010年当時78歳なので、終戦時には13歳前後)という人物の談話が載っている。Aさんの父親が開拓団参加を決めたのは、強制疎開が理由だった。家は瀬戸物屋を営み、商売は順調だったが、近くに三菱重工や日本光学などの軍需工場があったため、強制疎開の対象とされた。

 いまも大井町には「光学通り」という道路があるが、ニコンの前身である日本光学(1916年創業)は、大井町を代表する企業の1つだ。Aさんの家は、この工場界隈、おそらく西大井の駅から二葉町にかけてあたりだったのだろう。お父さんは、「いつか機会が来たら」という思いから、満州に「瀬戸物をいっぱい持って行った」というから、せつない。

 武蔵小山と二葉町の関係について、不穏な記述もあった。武蔵小山商店街は、建物疎開で家を失った二葉地区の人々に空き家を提供し、結んだ契約で得た資金を開拓団に組み入れようとしたという。なにやら、きな臭い話ではある。

金持ち開拓団


 商売はできない。家は取り壊された。頼れる故郷もない……。そう聞くと、満州へ渡ったのは生存戦略上やむなく、というふうに聞こえる。しかしこの開拓団の場合は、必ずしもそうではなかったようだ。少なくとも、一部の幹部に関しては。

『慟哭の大地──第十三次興安東京開拓団の最期』(2007年、自費出版)の著者である富満ていこ(旧姓原田。敗戦時には満16歳)さんは、武蔵小山の人間ではなかった。生家は浅草で大衆食堂を営み、父親の原田功太郎が当開拓団の農事指導員となったため、家族7人で渡満した。この功太郎が一風変わった人で、山形の造り酒屋に生まれ、若い頃には北海道を9年ほど放浪していた。家業の倒産を機に上京して、大衆食堂を開くも、晩年になって放浪癖が復活したのか、「土」に生きることに目覚めてしまった。そして庄内地方の黒川村で未開地の開墾に挑み、その縁で農事指導員になった変わり種だった。

 ていこさんから見た開拓団の描写がある。


団員の主流は東京都荏原区で商売を営んでいたチャキ、チャキの江戸っ子気質の人ばかりで、華やかな雰囲気があった。
挨拶にしても声が大きいし、話し方にも威勢の良い人が多かった。
五月に催された演芸会では、芸達者な人が多くてとても盛り上がった。
俗に遊び人と言われる人が結構居たのではないかと思う。
派手な感じのするメンバーからか、いつしか「金持ち開拓団」のイメージを持たれていたそうである。★2


 この開拓団の副団長であり、引き揚げ後に2冊の本を著した足立守三氏もこう書く。


かつて開拓総局で団長会議があった際、第十三次東京開拓団はぜいたくな開拓団だと批判されたことがあった。★3


 彼は九死に一生を得て、ソ連軍に捕まったあと、なぜか運良く東蒙古人民自治軍に雇われ、かつて自分が暮らした家を訪れることを許される。自分たちが愛用した品々は略奪されたあとだった。


私の娘が持って来たピアノもなかったし、家庭風呂用のボイラーなどもなかった。黒檀の仏壇もなかった★4


 旧開拓団本部を訪れた際には、団員が使っていたミシンに、「絹布団は上下三枚揃いだけでも七十組」、「見覚えのある錦紗友禅の布団がそっくり五組」★5を見た。さらに、原住民の屯長だった劉という人物の家を訪れると、思いがけないものに出くわした。

正面の壁に薩摩琵琶が掛けてある。私の家から持って来た娘幹子のものであった。★6


 私は彼らを、金持ち開拓団と揶揄したいわけではない。ただ、当時の武蔵小山商店街の幹部が、ピアノや薩摩琵琶を娘に習わせるほど豊かな生活を送り、そしてそれらの楽器を満州まで持って行った感覚に、驚くばかりなのだ。

 この開拓団が満州に入植したのは昭和19年。すでに二葉町の人たちが強制疎開させられ、武蔵小山に移り始めた時期だ。帝都・東京が戦火に包まれそうだという見込みが広がりつつある中、なぜ満州は大丈夫という思考回路になってしまうのか。「そういう時代だった」「国にだまされた」「お上の言うことを信じる時代だった」で済ませられる話なのだろうか。


 こんなことなら、国のためなどと大それた考えをするのではなかった。在郷軍人の分会長になったり、青年教育に心身を打ち込んだり、自分の家業を棄て、果ては満州にまで来てしまった。その上、可愛い妻子を死なせ、団員家族の多数をも死なせてしまったのだ。(中略)
 私が満州へ行こうとさえ言わなかったら、商人の人達もこんなに大勢ついては来なかっただろう。(中略)団長の山崎君にしても、私が副団長として全身全霊を満洲開拓に捧げるとさえ言わなければ、彼とてまさか満洲くんだりまで来はしなかっただろう。皆さん許して下さい。★7


 結束力の強い組織で、一部の幹部が功名心をかきたてられて愛国心を発揮し、住民の判断力を狂わせた挙句、多くの人が命を失う不幸が、武蔵小山に起きていた。

自決の多さ


 満州国を支配していた関東軍が、ソ連侵攻の一報を受け、開拓団民を捨て一足先に逃げたことはつとに知られ、満蒙開拓団の話を見聞きするたびにはらわたが煮えくりかえる。第13次興安東京荏原郷開拓団に限らず、地元の「匪賊」による略奪と殺害、ソ連軍による暴行(特に婦女暴行は多かった)と殺害があったことは明らかと思われ、地獄のような逃避行に思いきり感情移入しそうになる。

 しかしそれでも立ち止まりたいのは、現地住民にとって開拓団が侵略者だったことは、どう転んでも言い逃れできないからだ。開拓団が入植した土地は、地元の人たちの犠牲の上に成り立っていた。団員は、国策にだまされ、開拓団を「人間の盾」としか思わない関東軍や、功名心や愛国心に煽られた浅はかな幹部たちの被害者かもしれない。が、現地住民にとってはまぎれもなく加害者だった。戦局の逆転により、末端の加害者と被害者の立場が入れ替わった、ということだ。その視点を欠いたまま、満蒙開拓団を「悲劇の人たち」として、絶対的被害者のように受け止めることは、私にはできない。
 とはいえ、1039名の開拓団から日本に引き揚げられたのがたったの50数名、つまり生還率わずか5%という数字には、うなだれるしかない。そしてその夥しい人の死が、ソ連軍や「匪賊」の襲撃のみによって引き起こされたわけではないことにも、暗澹たる気持ちになる。集団自決である。

 この開拓団の場合、8月9日のソ連軍侵攻開始を偶然に知るも、広大な地に16もの村が広がることから連絡がうまく行き届かず、奥の部落から集合場所である大御田おおみた部落へ集合するまでにも4日を要した。「これほど切羽詰まった事態に立ち至っても、団長から何の指示もないことに、団員の不安は募る一方だった」★8と、引揚者の坪川さんは書く。そして15日の時点で、幹部たちの間に早くもモルヒネと青酸カリが出回った。


実際に薬を貰ったのは、本部員とその少数の知人のみであり、私たちはもちろん知らなかった。
 そしてこの日、日本の天皇が、ポツダム宣言受諾のラジオ放送をしたことも、誰一人知る由もなかったのである。★9


そしてその晩、誰よりも先に山崎団長が服毒自殺を図ってしまう。しかし薬剤が薄くて、死にそこなう。


団員の中には、大勢の団員を見捨てて死を以て責任を免れるとは卑怯ではないか、と呟く者もいたのである。★10


 翌朝、ようやく開拓団は入植地を離れて退避行動を始めるが、麻畑で「匪賊」に囲まれ、激しい銃撃戦となった。山崎団長は愛馬を銃で撃ち、そのあと銃で自殺する。団長の自決に団員たちの間に動揺が広がり、あとを追う者が続出。足立副団長の妻子も、この時点で服毒自殺をした(もっとも、そう記しているのは本人で、坪川氏ほか数名の生存者は、「今、娘を殺した。この責任は誰が取るんだ!」という足立氏の叫びを聞いた、と証言している)。


私はこの声を聞いて唖然としてしまった。足立自身が責任者ではないか――、気でも狂ったのか?いや、私の聞き違いか?と我が耳を疑ってもみたが、他に証言する人もいたので、私の耳を信じることにする。★11


 満州だけでなく、沖縄やアッツ島、サイパン島でも起きた「集団自決」。日本、戦時中、というとこの言葉が乱れ飛び、私もついつい不用意に使ってしまいがちだが、これは本当に恐ろしい言葉だ。武器や薬剤を配られたり、絶壁や洞窟へ導かれたりした時点で与えられる、自殺への同調圧力。その不穏さの中で個人の意志は軽視され、生きたいと願う人を裏切り者扱いする空気さえ醸成される。特に子どもの場合は、自ら死を選んだわけではない。親に殺されたのだ。「集団自決」に「子殺し」が多く含まれていることを忘れるわけにいかない。

何やらかさこそという音を聞いて、ふと目を覚ますと、隣に横になっていた石井夫人が、幼女の首を細紐で締め付けていた。幼女は、目を白黒させている――ああ、可哀相に――いっそひと思いにと、私の手は思わずその紐の一端を握り、引っ張っていた。その途端、人声を耳にして、ハッと手を放した。(中略)この時、この人声を聞かなかったら、私は生涯拭い去ることの出来ない悔いを残したに違いない。★12


栄部落 丸山堅一さん(引揚者、当時17歳)


畑の中も薄暗くなってきた時に、おやじとおふくろは私の目の前で、二男英夫(9歳)、三男忠男(5歳)、二女たみ子(12歳)の3人の首を締めたあと、日本刀で胸を突き刺した。長女美代子は寝かせておいて銃でコメカミを撃った。母の妹の家族も銃で始末してしまった。私は何がなんだか判らず、ただもう呆然としているだけでした。後になって思ってみても、あの時のおやじとおふくろの気持ちはどうにも判らない。あの情景は、生涯、瞼の奥に焼きついてしまった。★13


笠松恵美子さん(中国残留者、当時16歳)


 時が経つにつれて、周りが騒がしくなり、何事かと見渡して驚きました。あちらでもこちらでも、服毒自殺して苦しむ人、妻子に刃を向ける人など、さながら生き地獄の修羅場と化していました。
 私たちは家族は9名ですが、兄2人は握り飯の配給のあった時、既に行方不明でした。弟2人は麻畑の溝に伏せていたのに、敵弾に当たって即死してしまい、父は狂乱状態となって小銃を乱射、その弾丸が妹2人に当たって死んでしまいました。母と私は恐ろしくて震えながら抱き合っていましたが、この時弟は14歳と12歳、妹は9歳と4歳でした。★14


 NHKの『シリーズ証言記録 市民たちの戦争』というドキュメンタリー番組シリーズに、「強いられた転業 東京開拓団~東京・武蔵小山」(2009年)がある。ここに、2名の戸越銀座出身者が登場する。乾物屋を営む両親に連れられて渡満した、飯白タツ子さんと飯白栄助さん姉弟だ。父親は渡満のわずか2か月後に病没し、家族3人が満州に残された。そして逃避行の最中、母親と生き別れた。

 タツ子さんと栄助さんは、それぞれ中国人の農家に拾われて生き延びる。栄助さんはその後、八路軍(中国で抗日戦争中に華北を中心として活躍した中国共産党軍(紅軍)の総称。のちに中国自民解放軍に改編された)に入隊して各地を転々とし、1958年に帰国を果たした。タツ子さんの帰国はさらに遅く、中国人と結婚して8人の子どもを育てあげ、ようやく1975年に帰国を果たした。

 この栄助さんの独白に、私は言葉を失った。

そんときは、あっちこっちで、そういう、服毒自殺含めて、自分の子どもの首を、締めてるとかなんとかいっていう光景が、誰かは知らないにしても、そういう光景はあちこちにありますから、その子を特別かわいそうだなとか、特別何かっていうあれはなかったですね。(中略)とにかく、おふくろさんが自分の子どもを、赤ちゃんとか小さい子どもをやってるとかあれっていうのは結構ありましたね。そういう光景というかね。
ただ、あんとき思ったのは、これ、もし親父が生きてたら、おれも殺されたんだろうなということは、あれ終わってからかなんか、ちょっとどっかで思い出したことはありますね。親父がいないおかげで助かったんじゃないかっていう、むしろそういうふうに思ったこともありましたね。★15


 満蒙開拓団や報国農場の悲惨な逃避行の記録を読んでいると、団によって生存者あるいは引揚者の数が大きく異なることに気づく。

 もちろん、入植した場所の地勢も大きく関わる。入植地が内蒙古の奥地であればあるほど、退避する時間もないままソ連軍の猛攻にさらされ、逃避行の道のりは長く、犠牲者は多くなる傾向があった。しかしそれ以外では、ほんのちょっとしたことが団の命運を左右した。

 指導者が武装解除を申し出て、武器と物資を現地住民にすみやかに引き渡し、交渉して安全を確保したことで、多くの人が引き揚げられた団もあるのだ。それには現地住民との日頃からの交流がものを言った。現地の文化を理解しようとせず、住民を蔑み、痛めつけていた人たちには、それはできなかった。

 戦争について、私たちはよく「2度と起こしてはならない」「平和の大切さを語り継ごう」と言う。それはそれで異論はない。が、夥しい数の人々のあまりに悲惨な死にうちひしがれて「起こしてはならない」で止まってしまうと、「もしまた起きたら」に一向につながらない。

 この、失敗と呼ぶにはあまりに手痛い戦争の失敗から何かを学ぶとすれば、私は生き延びる方法を知りたい。

 壮大な物語に呑みこまれず、立ち止まる力。浅はかな有力者や権力者と距離を置き、孤立しながらも生き延びる方法。重大な局面に立たされた時の、判断力。頼る人も組織もない場所にたった1人取り残された時、しなければならない交渉術。気高さとも感動とも程遠いずる賢さ。

 死ぬ方法ではなく、生きる方法を求めて、いよいよ話は焼け野原の東京へ向かう。

★1 米屋陽一編著『上蛇窪ムラばなし百話――米屋トモヱ・聴き書き』、自費出版、2011年、137頁。
★2 富満ていこ『慟哭の大地――第十三次興安東京開拓団の最期』、自費出版、2007年、53頁。
★3 足立守三『曠野に祈る――満洲東京開拓団隠された真相』、恒友出版、1982年、155頁。
★4 同書、同前。
★5 同書、同前。
★6 同書、103頁。
★7 同書、96‐97頁。
★8 坪川秀夫『棄て民よ 蒙古風は祖国まで――第十三次興安東京開拓団潰滅の真相』、日本コミュニケーションズ、1994年、37頁。
★9 同書、39頁。
★10 同書、40頁。
★11 同書、43頁。
★12 同書、61頁。
★13 同書、115-116頁。
★14 同書、148頁。
★15 「証言 飯白栄助さん」、「NHK戦争証言アーカイブス」。URL=https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110399_00000
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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