世界は五反田から始まった(25) 焼け野原(2)|星野博美

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初出:2021年1月29日刊行『ゲンロンβ57』
 米軍の焼夷弾によって焼け野原にされたにもかかわらず、戦争についてほとんど語らない人たちに囲まれて育ったため、空襲については本を通して追体験しなければならない。戦争体験者の孫であり、子である私ですらそうなのだから、さらに若い世代が戦争について知ることの難しさを痛感する。

 東京を襲った様々な空襲の情報を紹介し、体験者の声を集めた『東京大空襲・戦災誌』は、東京の空襲を3つの時期に分けている。初めて東京を襲った昭和17(1942)年4月18日のドーリットル空襲は、ここにはカウントされない。これは真珠湾攻撃に対する報復決意を日本国民に伝える、物理的破壊より精神的打撃を主要目的とした、いわばゲリラ的空襲で、その後約2年半、米軍機は東京上空に姿を現さなかった。東京が断続的に空襲に襲われるようになったのは昭和19(1944)年11月24日から翌年の終戦までの約9か月間。この期間を3つに分けると、米軍の軍事作戦の変遷がわかりやすくなる。

 空襲にさらされた帝都民にとっては、このような分類は無意味であるばかりか、不遜ですらあるかもしれないが、後世の私にとっては、自分の故郷が焼かれた経緯を知りたい。地面に近寄ってみたり、上空から俯瞰したりして、空襲を想像したいと思う。



第1期:昭和19年11月24日から20年3月5日まで
軍事施設や軍需工場に対して約一万メートルの高度から昼間、主に目視で行われた精密爆撃
第2期:昭和20年3月10日から5月上旬まで
それまでの、白昼・高高度から軍事施設や軍需工場に対して行う精密爆撃から、夜間・低高度・焼夷弾による、工場地帯や人口密集地帯を狙ったいわゆる「絨毯爆撃」へと、米軍の攻撃手法が一変した。この攻撃は米軍が沖縄に上陸するために、日本の空軍力を本土に釘づけにしておくための陽動作戦を含んでいた。
第3期:昭和20年5月24日から8月15日の無条件降伏まで
日本の降伏を早めるための、東京空襲の "総仕上げ" の時期にあたる。まだ焼けていない「残存市街地」を焦土と化すための空襲で、手法は第2期と同じながら、工場。住宅混合地域に、金融、商業および政府機関地区までが攻撃目標に加わった。この期間に東京都心がほとんど焼け野原となった。
 米軍があからさまな無差別爆撃に転じた第2期、第3期の大規模な空襲を、時系列に挙げておこう(ちなみに、それぞれの空襲に厳密な名前が付けられているわけではないため、本稿では適宜、日にちや地域で呼ぶものとする)。
3月10日 下町大空襲:攻撃目標 東京の人口最緻密地域 4月13~14日 東京北部空襲:攻撃目標 旧王子区内の東京造兵廠群(東京第一陸軍造兵廠、東京第二陸軍造兵廠、陸軍赤羽火薬庫、陸軍補給廠)を中心とした市街地 4月15日 蒲田・川崎空襲:攻撃目標 蒲田・川崎の工業地帯 5月24日 城南空襲:攻撃目標 旧品川、荏原、大森三区と目黒、渋谷、芝の一部 5月25~26日 東京中心部・西部空襲:攻撃目標 旧京橋、麻布、芝、赤坂区など

中島飛行機の残り香


 断続的な東京空襲の皮切りとなった第1期、11月24日の攻撃目標は、東京都下武蔵野町(現・武蔵野市)の中島飛行機工場だった。スバルの前身で、零戦を製作していた工場だ。B29は24日に80機、27日には62機、12月3日にも70機で中島飛行機を爆撃した。

 私はかつて、武蔵野市八幡町に6年半ほど暮らしたことがある。三鷹駅からも武蔵境駅からも西武柳沢駅からも均等に遠く、えらく交通の便は悪かったが、周囲には畑が広がり、毎朝新鮮な野菜を買える環境抜群の場所だった。3匹の猫と暮らせる庭付きの安アパートを探すうち、そこまで都心から遠ざかってしまったのだ。

 当時はよく、武蔵野中央公園へ散歩に行った。広大な芝生が広がる、というより、芝生も空も広すぎて、なんだかぽかんとしてしまう公園だった。人口密集地出身の人間からすれば、かくも広い土地が東京で空いていることがなんとも不思議でならなかった。朝に行くと、手製の飛行機を手にしたお年寄りが集結し、広い空めがけて飛行機を飛ばしていた。芝生の上に大の字になり、よくそれを眺めたものだった。

 ある時、アパートの郵便受けに入っていたチラシを捨てようとしたところで、ちらりと目を通した。それは武蔵野市の戦争を語り継ぐ会、のような団体が発行したフリーペーパーで、私がよく寝転ぶあの公園が、かつては中島飛行機の武蔵野製作所だったことを、その時初めて知った。さらに、いまだに畑がそこかしこに広がるのどかな八幡町一帯が、激しく空爆されたことを知って愕然とした。

 中島飛行機の東工場跡地には昭和26(1951)年、「東京グリーンパークスタジアム」(あるいは武蔵野球場)という野球場ができた。グラウンドは後楽園球場より広く、夜間照明灯を備えた球場で、ここを前年に創設されたばかりのプロ野球チーム、国鉄スワローズが本拠地とした。しかし、いかんせん都心から遠くて不便だったため、わずか5年で営業を中止。この界隈にはグリーンパーク遊歩道という、古い民家と緑にあふれた不思議な道があるが、これは三鷹駅から野球場へと客を運んだ、国鉄引き込み線の名残である。それもかつては、国鉄と中島飛行機をつなぐために引き込まれた線路だった。

 東工場跡地は、球場が閉鎖されたあと日本住宅公団に売却され、昭和32(1957)年、武蔵野緑町団地が竣工した。現在の武蔵野緑町パークタウンの前身である。

 西工場跡地は米軍に接収され、昭和28(1953)年、米軍宿舎となった。立川、横田、府中などに勤める米軍将校とその家族が暮らすための宿舎である。この通称「グリーンパーク」の内部には、米軍宿舎のほかに米軍消防署、アメリカンスクール、映画館などが揃い、ほとんど小さなアメリカといった様相を呈していた。この米軍宿舎の返還が決まったのが昭和46(1971)年で、現在の公園の形になったのは意外と遅く、平成に入った1989年のこと。空爆から公園になるまで、半世紀以上を要したことになる。

意外な戦争遺構


 中島飛行機といえば、私にはもう1つ縁がある。大学の4年間を過ごした、三鷹市大沢の国際基督教大学(ICU)だ。ICUの校門の目の前には富士重工(スバル)があり、大学の背後には、これまた芝生の美しい野川公園があった。この一帯は、中島飛行機のブレーンが集結して研究開発を行った三鷹研究所だった。私がほとんどの授業を受けた大学の本館は、三鷹研究所本部に4階部分を増設した建物である。最近知って驚いたのだが、なんと昭和16(1941)年12月8日、真珠湾攻撃の日に地鎮祭が行われて建設が始まった★1というから、穏やかではない。
 ここも戦後米軍に接収され、その後はGHQ最高司令官のマッカーサー自ら募金活動に奔走して、昭和28(1953)年に大学が開学した。「国際的社会人としての教養をもって、神と人とに奉仕する有為の人材を養成し、恒久平和の確立に資すること」が謳い文句で、「真のリベラル・アーツ」教育をモットーとした国際基督教大学である。そんな大学に、日本皇室の一部の面々や婚約者(いまのところは)が通ったと思うと、なかなか味わい深いものがある。

 ここも芝生が美しい大学で、授業の合間にはほとんど芝生の上に寝転んでいた。だから私には、広大な芝生を見ると米軍の関与を疑うという、変な癖がついてしまった。

 戦争遺構ともいえる本館ビルをめぐっては、近年、一悶着があった。キャンパス内の諸施設の経年劣化を理由に、大学施設を大規模リニューアルする機運が高まり、2014年、建築家・隅研吾によるキャンパス・グランド・デザイン(通称CGD)プロジェクトが発表された。そこに本館の建て替え、つまり本館ビルの取り壊しが含まれていたのだ。その理由は、「1941年着工、1943年竣工のRC建造物で、築50年を超えた1990年代には当時の一般的なRC建造物の想定寿命を前提とした場合の残りの耐用年数が少なくなり、建て替えの議論が始まっている」★2から、というものだった。

 このプロジェクトを誇らしげに、大々的に喧伝するリーフレットが同窓会から送られてきた時、愛校心ゼロで、ふだん母校とまったく関わりを持たない私ですら、取り壊し反対のコメントを同窓会宛てに送ったほどだった。

 敗戦国の軍事拠点をGHQが接収し、そこに親米大学を建てて親米人間を養成する。アメリカが得意とする軍事広報活動だ。本館ビルは、「国際」という美名の裏に巧みに隠された、親米の道筋を思い起こさせてくれる、貴重な戦争遺跡だった。しかも米軍機が住宅を燃やし尽くした東京で、燃やすことができなかった数少ない遺構である。それを大学自らの手で消滅させるとは、記憶の破壊にほかならない。

 当時は暗澹たる気持ちになったが、幸い、一部の学生や教職員が猛烈に反発したことで、大学側も再検討を余儀なくされた。そういう柔軟性は、この大学のよいところかもしれない。そして専門家による耐震性能調査を行った結果、2017年、「改修によって長期継続使用すべき」との判断、つまり本館の存続が決定したのである。

 その理由がおもしろい。

 本館が旧中島飛行機の研究所という軍事関係の施設としての施工であったこと、大学校舎として使用してきたため一般のオフィスビルなどと比較して人口密度と稼働率が低く、建物に対する負荷が比較的小さい使用環境であったことが、良好な結果の背景にあるものと推察される。★3


 中島飛行機が国の威信をかけて頑丈に造ったからこそ、約80年後に解体の危機を免れたとは、なんとも皮肉である。ともあれ、この戦争遺構の保存が決まったことを心から喜んでいる。

少年は空へ


 記憶は、別の記憶へ飛び火する。

 飛行機つながりでもう1つ付け加えると、武蔵野市八幡町で暮らしたアパートの大家さんは航空自衛隊の元パイロットだった。私の父より1つ上、昭和7年生まれの人だ。

 大家さんは大の車好きで、しかも英語が割と得意だったため、早稲田大学在学中の昭和27(1952)年、再開されたばかりの虎ノ門のアメリカ大使館で、運転手のアルバイトをしていた。思う存分アメ車が運転できて英語の勉強にもなる、趣味と実益を兼ねたアルバイトだった。ある時、「それほど車が好きだったら、飛行機を操縦してみるか?」と大使館勤務のアメリカ人に聞かれ、「イエス!」と即答したところ、トントン拍子に話が進み、なんとアメリカへ送られた。世界中の親米国家から留学生を集め、アメリカで航空機の操縦を訓練して、母国へ帰したのだった。

 その時は「へー」と思っただけだが、航空自衛隊のホームページによれば、昭和29年6月22日、「第一期操縦学生(R‐1)16名、米極東空軍によりT‐6練習機で操縦教育開始」とあるから、大家さんは、そのうちの1人だったのだろう。三沢基地に駐屯した時代は、ソ連のミグ機の領空侵犯があり、たびたびスクランブル発進したという。

 零戦を製作する中島飛行機があったために激しく空爆された町で育った少年が、成長するにつれて無類のメカ好きになり、米軍から一本釣りされて操縦訓練を受け、日本の空を守るパイロットになった。奇妙なめぐりあわせだが、ICUにいた私には十分うなずける話だった。

 私にとって武蔵野市や三鷹市は、米軍と飛行機の残り香が漂う場所なのである。

大五反田とベルリン


 話を武蔵野から大五反田に戻す。

 大五反田界隈がおさまる旧品川区、荏原区を焼き払った空襲は、第3期の第1弾、5月24日未明にあたる。1日おいて25日深夜から26日未明にかけては、渋谷、中野、芝、世田谷、赤坂、杉並といった東京中心部・西部の住宅地が空襲を受け、東京のほぼ全域が被害を受けた。ちなみに東京有数の工業地帯であり、五反田起点の池上線沿線住人からすれば終点にあたる蒲田地区は、それに先立つ4月15日、多摩川を隔てて向かい合う川崎とセットですでに空爆済みである。都市ガス工場、機械工場、通信機関係といった工場が密集した川崎と、精密機械や工作機械を生産する工場が多い、東京市内で最も工業化された蒲田。品川住民からすると、蒲田・川崎と五反田とで第2期と第3期に分かれたことが不思議に思えるのだが、川崎・蒲田の空爆時には、日本の軍需工業の中枢を潰滅させるという大義名分が、まだ米軍にはあったものと見える。

 さらに川崎・蒲田空襲と城南空襲は40日ほどしか離れていないが、その間に世界では大きな動きがあった。

 3月10日大空襲から2か月半後というタイミングには理由があった。5月8日にドイツが降伏し、連合国にとって残る敵は日本のみとなったのだ。5月11日には、沖縄戦支援に出向いていたすべてのB29が、日本本土に対する焼夷弾攻撃に回されることが決定し、帝都空襲「総仕上げ」の舞台が整った。その手始めとして、大五反田は空爆された。
 大五反田とベルリンがこういう形でつながっていたとは、思いもよらなかった。月並みな言い方だが、戦争というのは本当にグローバルである。

 ベルリンといえば、第3帝国時代の建造物が頑丈すぎて、いたるところに戦争遺構のある街だ。それに東ドイツ時代の社会主義建築が加わり、歴史が重すぎて、息苦しくなる。東京のようにすぐに壊して碑だけを建て、記憶喪失に拍車をかける思考回路はどうかと思うが、あまりに歴史が残る街も、それはそれで辛いだろう。

 ベルリンには、東西を問わず、奇妙なものがある。それは住宅街に突然出現する公園の中にある、不自然なほど盛り上がった、芝生に覆われた山だ。ベルリン市民は緑が大好きなので、暇さえあれば公園へ行き、芝生に寝そべったり、半裸に近い格好で日光浴をしたりする。子どもたちは公園内の山でソリ遊びをすることもできる。

 昔はまったく事情を知らず、緑をこよなく愛する市民のためにベルリン市が、わざわざ山までこさえたのかと思っていた。

 しかしこうした山は実は、第2次世界大戦で破壊された建築物の瓦礫の山なのである。東京の紙と木でできた家々は燃え尽くして灰塵に帰したが、ベルリンの瓦礫は何十年たっても消失しない。それにいつしか草が生え、市民の憩いの場となった。もしベルリンへ行く機会があったら、ぜひ寝そべってみてほしい。

 また脱線してしまった。

 前回述べた通り、この5月24日空襲には、単位面積あたりで3月10日の大空襲の2倍にあたる焼夷弾が投下され、荏原区の罹災率は95.78%、旧三十五区内で最高の罹災率に上った。にもかかわらず、品川区と荏原区を合わせた死者は252名だった。

 10万人以上といわれる犠牲者を出した3月10日に比べ、なぜこれだけ死者数に差が出たのか? 『東京大空襲・戦災誌 第二巻』や『東京を爆撃せよ』をもとに、5月24日を追体験してみたい。

空襲警報発令


 日本時間で5月23日の夕刻6時24分、グアム島の北飛行場を皮切りとしてマリアナ諸島の三島から550機あまりのB29が、東京南部をめがけて離陸した。全機が発進し終わるまでに2時間10分を要したというから、とてつもない数だ。

 米軍機は、3月10日の下町空襲の際は外房の御宿から、4月15日の蒲田・川崎空襲では外房の勝浦、御宿、太東岬あたりから日本に上陸し、東方から東京上空へ侵入した。が、この日の進路は、その日の風向きを考慮した結果、3月26日に陥落させたばかりの硫黄島上空を経由して、外房からではなく、神奈川の御前岬が上陸ポイントとなった。そこから相模湖町を経て八王子に至り、西方から東京上空に入った。そして攻撃終了後は九十九里浜から洋上に離脱し、再び硫黄島上空を経て基地へ帰還した。

 私がこれらの上陸ポイントにいちいち反応するのは、母の暮らした太東岬界隈、祖父母の親戚が集結する御宿が、米軍機の飛行ルートの真下だったからだ。うちの先祖が代々鰯をとり、幼い私がピチャピチャ遊んだ砂浜の向こうから、米軍機の大軍団が姿を現したのかと思うと、その衝撃が少しは想像できる。

 以前、祖父のルーツを探って外房の親戚に取材をたびたび行っていた時、長老の星野かん(祖父・量太郎の姪)が3月10日についてこう語ったことがある。真夜中、夥しい数の戦闘機が海の向こうからやってきて、自分たちの真上を素通りし、東京方面へ向かった。その後、東京のほうの空が朝まで真っ赤に染まっているのが御宿からも見えた。「量ちゃんが死んじゃう」と親戚じゅうで泣きじゃくったという。

 当時8歳の母も、その戦闘機軍団を真下から見ていた。

「昔あんたたちが遊んだ砂浜の、まさにあそこの真上を通っていった。どの空襲か覚えてないけど、男の子たちと林に隠れて見に行ったことがあるよ。『あれ見たか?』『すごかったな』とか聞かされると、子どもだから見たくなってね。あとで親にバレて、ものすごい剣幕で叱られた。3月10日の翌日は、燃えた新聞紙や布きれが風に乗ってここまで降ってきたのよ」

 空襲警報が発令されたのは日付が変わって5月24日、午前1時36分だった。空襲はそのわずか3分後、1時39分から始まった。

 1時55分頃、戸越銀座に火災が起こり、平塚一丁目、中原国民学校周辺、藤倉航空工業付近でも火災が発生、さらに立正大学周辺、昭和通り一帯が火の海となり、これらの火災が合流して大火流となった。

 おそらくうちも、2時くらいには焼けたはずだ。
「西方より帝都に侵入しつつあり」伝令がそう伝えてきた。「チェッまたか」誰しもそう思ったろう。今度は帝都西部だろう。私は思った。私達の上空には敵は来ないものだと思ったのである。  だが……、敵機は果たして西の空より侵入してきた。我々の方向に正しく飛んでくるではないか。再び弾の炸裂音と哨兵の報告の声、部隊全体のざわめき、かくて第二幕目は始められたのである。★4


 帝都民が空襲に慣れっこになっていたことがうかがえる記述だ。彼らはB29が太平洋、つまり東のほうから来ることを知っていた。ところが今回は西方向から侵入したので、帝都西部が標的だろう、と少し油断をしたらしい。

 B29一機が数条のサーチライトを受けて翼をキラキラ銀色に輝かせながら現われた。美しいなあ! しかしそいつが西の空から一直線に私の頭上へ来る。いけねえっ。危険と感じた。その時サーッと夕立のような音、爆弾と直感して地面へ身を伏せた。★5


 やはり「西」に注目している。米軍機を見て「美しい」と感じるのは、ごくふつうの感覚だと思う。

 サーチライトに照らし出された敵機は、かなり近くまで接近していた。昼は一万メートル以上の高度を飛ぶ機体が、夜は三〇〇〇~四〇〇〇メートルと、かなり低空を飛んでいるために、大分大きめに見える。相対的に、地上から見る速度も、昼にくらべて速い。地平線の方は、もう攻撃をうけたのか、神社の森のシルエットを通して、向うの空が紅く染まっている。★6


 低空飛行で焼夷弾を落とすB29は、かなり大きく、高速に見えたのか。これは想像しなかった視点で、目から鱗が落ちた。当時の一般市民は飛行機に乗ったことがない。平時には飛行機など見たこともなかっただろう。至近距離で戦闘機の腹を見られるのは、空襲を受ける側の人間だけである。羽田空港の飛行ルート変更で、いま五反田や大崎上空には飛行機の姿が現れるのだが、あれが深夜に五百機あまり、超低空飛行で押し寄せてくるところを、夜空を見上げて必死に想像する。

見上げる空に、写真屋が使用するマグネシュウムの光に似た物体が、ふわふわと浮いていた。照明弾だ。と、上を見上げていた私の顔に、ポツンと冷たいものが落ちて来た。こんな時に雨か? それにしても、ついさっきまではあんなにきれいな星空だったのに……。いぶかりながら、水滴を手ではらい、蚊に喰われた顔のあたりを掻こうとして、おどろいた。くさい! 水滴と思ったのは、実はガソリンだったのである。★7


 空から降ってくるガソリンを、「夕立かと思った」と証言する人は少なくない。

 三月一〇日の江東地区空襲の際、最後まで消火活動して逃げ場を失い、死者多数と伝えられてより防空意識、消火意欲喪失し、退避第一、生命保全の風潮が広まっていた。★8


 当時女学校三年、学徒動員で工場へ通っていた。そこで三月一〇日の経験者より逃げるということを教えられた。  あの晩も防空壕に泥をかけ、家をほうりだして最も広い第二京浜国道へでてみた。照明弾がふらふらしているので非常に明るい。驟雨のごとく国道にカランコロンと降ってくる焼夷弾は恐かった。★9


 え……3月10日の大空襲が夥しい犠牲者を出したことに衝撃を受け、消火意欲を喪失して、逃げることを優先した?

 そんな当たり前の理由で、多くの人が死なずに済んだということ?

 衝撃を受けている。

次回は2021年2月配信の『ゲンロンβ58』に掲載予定です。


★1 「ICU本館 『戦争遺跡に』 建て替え案に学生ら反対 真珠湾の日に地鎮祭、旧中島飛行機施設」毎日新聞、2016年12月7日東京夕刊。
★2 「ICUの施設設備と現状と展望」(2019年7月17日)より。URL= https://www.icu.ac.jp/about/docs/Campus_plan.pdf
★3 同上。
★4 西山政次郎の証言。『東京大空襲・戦災誌』第二巻、東京空襲を記録する会、1973年、648頁。
★5 伊豆山定七の証言。同書、448頁。
★6 青山哲夫の証言。同書、650-651頁。
★7 同上、652頁。
★8 大平進の証言。同書、432頁。
★9 竹中宮子の証言。同書、431頁。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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