【特集:コロナと演劇】宮城聰ロングインタビュー(1) 演劇人としてのあゆみ—東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて|宮城聰

ゲンロンα 2020年9月11日配信

 いまだ収束の気配が見えないコロナ禍で、多くのライブエンターテイメントが中止や延期を余儀なくされている。そんななか、「東京芸術祭 2020」の開催が発表された。
その総合ディレクターである宮城聰氏は、2007年からSPAC-静岡県舞台芸術センターの芸術総監督を務める。2017年にはアヴィニョン演劇祭のオープニング作品として『アンティゴネ』を法王庁中庭のメインステージで上演している。これはアジア人初の快挙であり、ヨーロッパの演劇界に旋風を巻き起こした。
 SPACの芸術監督になるまえ、宮城氏はク・ナウカ シアターカンパニーを主宰していた。この劇団は語りと動きを別の俳優が担当し、二人一役で演じるのが特徴である。人形浄瑠璃にも想を得たと言われるこの方法で作られた作品はSPACにも引き継がれ、いまも高い評価を得ている。アヴィニョン演劇祭に招聘された『アンティゴネ』、『マハーバーラタ』(2014年)の2作品も、二人一役(言動分離)の作品である。

 全国が緊急事態宣言下にあった2020年5月、静岡県で2000年から約20年にわたり開催されてきた国際演劇祭、『ふじのくに⇄せかい演劇祭』が開催の危機にさらされた。宮城氏は国外の劇団の物理的な移動が不可能になったのを受けて、急遽『くものうえ⇅せかい演劇祭』としてオンライン開催し、成功を収めた。その後も観客に演劇を届ける取り組みを次々と打ち出し、実施してきた。

 ク・ナウカは劇場の外での上演をなんども試みたり、気になる土地にアクセスして、いわば押しかけるような形で海外公演をするなど、型破りな劇団だった。この、型破りな力は、コロナ対策にも生かされている。なお「ク・ナウカ」はロシア語で「科学へ」という意味だ。
 コロナ禍において、演劇人は「演劇とはなにか」「演劇は必要か」という問いに直面した。これらの問いに真摯に向きあう宮城氏の背景には、演劇人としての半世紀の営みがある。コロナ時代、演劇を閉ざさず、開いていくためにはなにができるのか。4時間にわたる熱いインタビューで、宮城氏のこれまでの歩み、現在の活動、未来への希望をうかがった。

 なお、特集「コロナと演劇」では宮城聰インタビュー(全3回)を皮切りに、2019年の東京芸術祭ワールドコンペティションに参加したチリ、中国、ニュージーランド、南アフリカ共和国の演劇人たちの寄稿全4本をお届けする。

 

演劇と市民運動と高校のロッカー


 ──コロナ禍にあって、宮城さんはこの数ヶ月、立ち止まることなく次々と新しい取り組みを打ち出してこられました。ゴールデンウィークに開催予定だった「ふじのくに⇄せかい演劇祭」は、急遽「くものうえ⇅せかい演劇祭」に変更されました。海外から招聘する予定だった劇団とオンラインでつながり、ストリーミングや対談、Zoom演劇などで、演劇祭を実現する試みです。また、最近は「劇配!」という企画で、老人ホームなどにソーシャルディスタンスを確保できる演劇を届けたり、電話演劇を実施したりされています。

 このように、コロナ禍でも観客をもとめて演劇をやり続けるSPACと宮城さんの決意にはたいへん励まされます。7月には、総合ディレクターとして「東京芸術祭 2020」の開催を発表されました。宮城さんがいま、なにを感じなにを考えているのか。今日は「コロナと演劇」をテーマにじっくり伺いたいと思います。

 まずは演劇人としての原点にまで遡って、宮城さんの演劇との出会いからお話いただけますか。

宮城聰 演劇を始めたのは高校生のときです。演劇部でした。ぼくが通っていたのは東京教育大学附属駒場高等学校(現・筑波大学附属駒場高等学校)ですが、入学当時、演劇部は存在しませんでした。3学年上だった野田秀樹さんが卒業した時点で、演劇部は部員がいなくなって廃部になっていたんです。

 階段の踊り場に部活のロッカーがあるのですが、そこに演劇部のロッカーもまだ残っていました。あるときそれを開けてみたら、野田さんの処女戯曲『アイと死を見つめて』(1972年)のガリ版刷りとか、高萩宏さん(後に野田氏と共に劇団夢の遊眠社を立ち上げた。現東京芸術劇場副館長)の書いた、厚さが1センチもあるような演出ノートなんかが入っていたんです。いま思えば、ものすごく貴重だよね(笑)。そんなこともあって、ぼくは高校1年生の3学期に演劇部を再興しました。だから15歳くらいから演劇をやっています。もっとも当時は、将来プロになれるとは考えていませんでした。

 ──その後、東京大学に進学し、劇団を立ち上げますね。

 じつは、大学に入って一度は演劇を離れたんです。でも、入学後1年が経ったころに、ふたたび演劇というモデルに関心が向いた。きっかけは社会運動です。

 ぼくは高校時代から演劇部と並行して、生徒会や市民運動にも関わっていました。高校の1学年上に在日韓国人の先輩がいたのですが、彼のお父さんが韓国へ渡った際に政治犯として捕まってしまうという出来事があった。当時の韓国は朴正煕パク・チョンヒ大統領の軍事政権下にありました。そして、政権安定に利用するために、在日韓国人を反政府運動に関わる政治犯に仕立て上げて逮捕するという事件がなんども起こっていたんです。この身近な事件がきっかけで、高校時代から政治犯の救援運動に携わるようになりました。

 当時は日本全国のあちこちに政治犯支援組織があった。それらはキリスト教系だったり、学生運動出身のひとたちが作ったものだったり、いろいろでした。そうした運動では、大きな問題が目のまえに現れると、なんとかしようとまずは一致団結する。ところが、政権が一種の見せしめとして出した死刑判決が助命嘆願によって無期懲役に減刑されるなどして、運動が長期戦になるにつれ、グループ同士の思想のちがいのようなものが顕在化してくる。そのちがいは、具体的にはすごく些細なことなんです。けれども、おかしなもので、そこがちがうと根本的な立脚点が異なっているような気になる。そして、もはやいっしょに運動することはできないと感じてしまう。

 ただ、冷静に考えればそれはあたりまえなんですね。100人いたら100通りの価値観があるわけだから。最初のうちはひとつの目的に向かって結束できていたし、高揚感もあった。ところが短期的な目標を失ったときに、お互いの考え方のちがいに気づき始める。そもそも運動というのは「たったひとりじゃできないことを集まってやろう」というものです。それがどんどんバラバラになって、グループが分裂していく。そして結果的に、運動としての力を持たなくなるんです。

宮城聰氏。コロナウイルスの感染拡大防止のため、インタビューはZoomを介して行われた。
 

1959年東京生まれ。演出家。SPAC-静岡県舞台芸術センター芸術総監督。東京芸術祭総合ディレクター。東京大学で小田島雄志・渡辺守章・日高八郎各師から演劇論を学び、1990年ク・ナウカ旗揚げ。国際的な公演活動を展開し、同時代的テキスト解釈とアジア演劇の身体技法や様式性を融合させた演出で国内外から高い評価を得る。2007年4月SPAC芸術総監督に就任。自作の上演と並行して世界各地から現代社会を鋭く切り取った作品を次々と招聘、またアウトリーチにも力を注ぎ「世界を見る窓」としての劇場運営をおこなっている。2017年『アンティゴネ』をフランス・アヴィニョン演劇祭のオープニング作品として法王庁中庭で上演、アジアの演劇がオープニングに選ばれたのは同演劇祭史上初めてのことであり、その作品世界は大きな反響を呼んだ。他の代表作に『王女メデイア』『マハーバーラタ』『ペール・ギュント』など。2006〜2017年APAFアジア舞台芸術祭(現アジア舞台芸術人材育成部門)プロデューサー。2019年東アジア文化都市2019豊島舞台芸術部門総合ディレクター。2004年第3回朝日舞台芸術賞受賞。2005年第2回アサヒビール芸術賞受賞。2018年平成29年度第68回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2019年4月フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。写真=Takashi Kato

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